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この三連休は少しは出かけはしたものの、映画もスクリーンで1本、家で1本を見た程度で、ほとんど家で過ごすことになった。渋谷にでも出れば、フィリップ・ガレルの新作を見ることもできるし、何度見ても再鑑賞の度に驚きや新たな発見をするだろう、ワイズマンやウディ・アレンの新作が上映されているにも関わらずだ。

その唯一の理由と言えば、蓮實重彦の『映画時評2009-2011』がAmazonから届いたから、であることは言うまでもない。

この三日間は、それが二十一世紀を生きる僕たちにとって、ほとんど唯一の娯楽であるがごとく、その本のページをめくり続け、「映画」という名の奇蹟を噛み締めることになった。

蓮實の文章をこれほどしっかり読むのは、自分の記憶を辿ったり、自分の読んだ本のノートを見る限り、大学生以来のことのようで、当時は授業中、映画狂人シリーズを読んではビデオ屋で未見の映画を探し、未読の彼の書をたまたま古本屋で見つければ、テスト時間も投げ打って教室で読んでいたことを思い出す。僕の「教育者」は、教壇に立つ名前もおぼろげなお爺さんより、蓮實重彦だった。

ほとんど五年ぶりに彼の文章に触れ、その文章の自信に満ちた力強さ(「想起しない人はいない」と言われ、それを想起しなかった当時の自分を恥じてみたり)、煽動力(『アバター』ですら楽天レンタルで借りてしまった!)を前に、かつて映画だけあれば人生を満たされる、と信じてやまなかった自分がフラッシュバックするのだ。

彼が取り上げる映画は、当然その書のタイトル通り、「2009-2011年」に撮られた新作についてである。だが、そのほとんど全ての文章に「二十一世紀」というキーワードが入り、そして、その二十一世紀の映画の存在を常に否定した上で、語られる。

たとえばジョニー・トーの活劇に満ちた素晴らしい小作『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』について、本書でのインデックスは『よくできたごく普通の映画の二十一世紀には稀な貴重さについて』とあらわされることはわかりやすい部分だし、かつて蓮實の文章を読んだことがある人は、彼が決して好意をもっていなかった二十世紀を代表する映画作家ジョン・カーペンターに、二十一世紀においては、ほとんど彼のような作家は残っていない、と語っていることに驚くだろう。

僕たちの世代がまともに映画と向き合い始めたのは、ほとんど二十一世紀である。過去「遅れてしまった感」を持って二十世紀の映画を見続けたことがある人で、蓮實のような「教育者」にこう語られれば、きっと二十一世紀に生まれたことを悔やみ、そして「遅れてしまった感」を強めるだろう。

蓮實の意図はなんだろうか。僕らは、最後にあとがきを読み、身震いするだろう。彼はあくまで僕たちの「教育者」であることに気づくのだから。

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