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とてつもなく面白いのだが、なかなか読み進まぬ『レベッカ』(デュ・モーリア)と同時並行で4冊ほど本を読み進めているわけだが、その中で一番最初に読み終わったのは『映画覚書vol.1』と題された阿部和重の映画批評集だった。2004年の作品である。

多少、映画や小説に縁があるものであれば、阿部和重が小説を書く前、映画監督を目指し、映画学校に通っていたことは周知のことだろう(当然シネフィルだ)。そして、いまの日本の若手映画批評家といえば誰か、と問われれば、残念ながらかろうじて名前の挙げられる唯一の人物かもしれない。Amazonのレビューが評論家の言葉よりも信頼性が高い、と報じられたのは最近の話だったと記憶しているが、こと映画においても同様のことは起きており、「映画批評家」というくくりにおいて名前が認知されている人たちよりも、ブロガー/無名のレビュアーの方が知識も豊富で、よっぽど刺激的な文章が書くことがきできるという現状は全く嘆かわしい事態である。

内容はとても充実している。シネフィルであり、映画監督であった彼は、映画を語るにおいて十分な知識と経験を持っており、その言葉は説得力に満ちている。しかし、そのほとんど唯一の若手映画批評家の阿部和重をもってさえ、何かが足りないのである。蓮實の文章を読んでいるときのようなドキドキワクワク感がどうしても生まれない。理由は何なのだろうか。あくまで阿部和重は優れた「作家」であり、「映画の人」ではないからなのだろうか。客観的に論ずれど、この映画をどうしても見たい、と映画館に駆けつけさせる力は、彼の文章にはない。この500ページ近い評論集の最も面白かったところは、蓮實との対談における、蓮實の発言であったことが物語っているのだろう。

日本におけるほとんど唯一の若手映画批評家である彼でさえ、この程度であれば、日本の映画批評はそれこそ、危機的な状況にあるのではないだろうか。蓮實重彦の最新の著作『映画時評2009-2011』の最後のあとがきにおいて、教育者たらん彼が「若者がしょうもないから俺が見本を見せなければ」と言ったのは、もしかすると映画監督に対してよりも先に、映画批評家に対しての言葉だったのかもしれない。

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