田中大地のwebサイト

僕がRSSに登録している人たちが、揃いも揃って傑作、いとおしい、存在してくれてありがとう、と言う。

こうも周囲で騒ぎたてられては、全く見る気がなかったこの映画に足を運ばないわけにはいかない。文句のひとつでもつけてやろう、そんな意気込みで挑んだものの、全く打ちのめされてしまった。

最後の、屋上のシーン。もうほんと泣いた。涙の粒ではなく筋が頬を伝うのがわかった。映画館はそのとき二分されていた。劇場の後ろの方ではみんなが大声で笑い、一方前方は笑う人はひとりもいなかった。映画館にもカースト制度の残骸を見てとった。僕は高校時代、スクールカーストはBの中(Aのちょいヤンキーぽいやつとも話せるし、Cの人たちとも表面上は公平に接し、Dは軽くいじめる。ちなみにうちの学校には特A、つまり桐島はいなかった)に位置していたが、中身はこの映画における神木くんと同じこと考えていた。そのときスピルバーグ見に行かないやつとかほんとしょーもないと思っていたが、同じように、このシーンで笑うやつ、たぶんスクールカーストでいうとBの上以上だろう(でないと笑えるはずがない)ほんとしょーもない、と思った。

この吉田大八という映画作家が、大槻ケンヂの『グミ・チョコレート・パイン』を意識していることは、『グミチョコ』と同じシチュエーション、つまりマニアックな映画の上映で出会う少年少女や、映像と音をオーバーラップさせる屋上のシーンを見れば明らかだ。僕は『グミチョコ』信者で、漫画・小説はおろか、絶対つまらんでしょそれはという映画すら公開初日に足を運んだくらいなので、映画館のシーンとか、惨すぎて直視するに堪えず、いや勿論見るんだけど、こんなの酷い、と心の叫びをあげた。吉田大八は、橋本愛に、かつてカーストを自在に駆け抜けた山口美甘子と同じ素質を与えながら、決してAランクから降りさせないことで、神木くん演ずる「かつての僕たち」の夢や希望を打ち砕く。僕たちは、現実がそうであったことと同様に、憧れの少女との「グミ・チョコレート・パイン」を行うことすら、許されない。

屋上のシーンが、近年のいかなる映画における場面よりも美しいのは、神木くんa.k.aかつての僕たちが、スクールカーストAランクへの抵抗を見せること、そのカタルシスだけに尽きない。みなが示唆するように「キリスト」を文字って付けられたであろう「桐島」が見せる、万人への愛が、このシーンで結実するからこそ美しいのだ。同じく少年少女が8mmフィルムでゾンビ映画を作り上げる『SUPER 8』は、エル・ファニングという少女の存在によって、映画がはじめて完成した(列車が迫ってくる瞬間のエル・ファニングの見せる表情は映画史に燦然と輝くものだ)。しかし『SUPER 8』とは異なり、憧れの少女との交流を許されない神木たち映画部は、「女性不在の映画」を作るしかない。「女性不在の映画」なんて映画ではないという、ということを経験から十分に知っている神木くんは、長髪の男子映画部員を女装させるしか選択肢は残されていないだろう。しかし、「桐島」の万人の愛は、神木くんたちですら、見捨てはしない。自身が、屋上から飛び降りる「幻想」を見せることで、みなを屋上に集結させるのだ。そうして、神木たちの撮る映画は、橋本愛の限りなく美しい表情を捉え、奇跡の映画は完成するだろう。「桐島」の起こす奇跡は、それだけに留まらず、橋本愛のスクールカーストをぶち壊す平手打ちや、東出昌大の成長・越境、そして交流を生みだすだろう(あの「告白」のシーンの奇跡のような美しさは一体何だったのだろうか)。

あらためて言おう。「桐島、部活やめるってよ」という、日本映画の新たなる金字塔たる名作が生まれたことを、僕は両の手ばなしで喜びたい。うれしくてうれしくて仕方ない。

“『桐島、部活やめるってよ』(吉田大八)” への1件のフィードバック

  1. akttkc より:

    "屋上のシーンが、近年のいかなる映画における場面よりも美しいのは(…)「桐島」が見せる、万人への愛が、このシーンで結実するからこそ美しいのだ"

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