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ウォールフラワーパーティー

wallflower
かつてバックパックを背負い、世界中の街々を非計画的に歩くのが好きだった私は、旅に出るたびに、iPodの「on-the-go」とやらの機能を使って、旅のマイプレイリストを作っていたものだ。そこに入っている他の曲はほとんど聞かなくなったが、大学卒業前、最後の長旅、ブルガリアで加えたイルリメの「トリミング」だけは別で、あれから6年も経つのに毎日のように聞き続けている。「見せておきたい景色がずっと募って 写真じゃ切り取りきれないから 話せば白々しくなるから 連れて行きたい気持ちになります」というリリックに当時の私はノックアウトされた。当時大好きだった彼女をおいて一人旅に出ていた自分の境遇を重ね、雪の降りつもる遠い街で涙したものだ。そのリリックは彼女へのエアメールで文中そのまま引用された。
旅には音楽と小説がつきもので、金原瑞人が訳すアメリカ青春小説なんかをバックパックに詰め込んで、名も知らぬカフェ、12時間もの長距離バスの中、ドミトリーのベッド、ほとんど観光もせず本を開いた。数冊の本はすぐに読み終えてしまうので、旅中に出会った日本人と交換する、なんてことをやっていたのだが、そのときにある寺の息子の青年と交換した一冊が『ウォールフラワー』だった。これがまた随分と面白くて、ラオスのカフェで甘ったらしい珈琲と手巻き煙草片手に読みふけったことを思いだす。その小説が映画化するというものだから、思い出を餌にして生きている僕としては映画館に駆けつけない理由なんぞ一つもない。
言うまでもなく『ウォールフラワー』はとびきりに最高で、「パーティーは止まらない、私の青春は終わりはしない」が口癖の私には、青春映画の代名詞のような作品にノックアウトされる。何がっていくつものパーティー、初めてのアルコールとドラッグ、愛すべき友人たち、そして大好きな女の子。エマ・ワトソンが今世紀最大の魅力的な女の子っぷりを披露してくれるのだ。クリスマスパーティーの夜。「チャーリーの初めてキスする人は、好きな人としてもらいたいから、今日は私は彼のことは忘れるわ」との台詞のあとに交わされるキスといったら!(しかもベッドの上!)
だから私の頭の中は「ウォールフラワーパーティー」をやりたいということばっかりで、三連休の初日の夜、新高円寺のマンションの一室で行われたのは、「ウォールフラワーパーティー」以外の何物でもなかっただろう。残念ながらエマ・ワトソンは不在だったのだけれど。
その夕方、『ゼロ・グラビティ』に随分と感動した私は、そこから新高円寺へと向かう。新高円寺駅のクイーンズ伊勢丹でスーパードライとよなよなエールと白ワインなんかを買い込み、スーパードライを飲みながら寒空の下を10分弱歩くだろう。そのマンションの階段の電球は切れ、私は突然の恐怖体験におののきながらも、なんとか3階のモリシーとユカちゃんとカレンの住む家へと到着する。夏、葉山ビーチパーティー以来の彼らとの再会に喜び、ハグなんかを交わす。しばらく経てば、やいちゃんとフルノさんもやってくるだろう。それだけ人が入ればいっぱいのワンルームでわたしたちに許された特別な時間は始まるのだ。60コもの餃子とビールとハムとベーコンをたっぷり入れた焼きそば。iTunesシャッフルで「朝が来るまで終わることのないダンスを」がかかれば、そこはクラブへと変化する。
誰かが電気を消せ、ミラーボールを用意しろと言う。フルノさんが答え部屋の電気を消し、iPhoneでライトを点滅させる。クラブだ!クラブだ!と叫ぶ!ベッドで飛び跳ね、全身を揺らし、踊る。どこからかテキーラも登場し、より一層酔いを加速させる。DJモリシー、DJフルノ、DJダイチが順繰りに選曲する。「みんな泣きながら踊りたいかー?」「イェーイ」のコール&レスポンスで「Rollin’ Rollin’」なんてかかる。ベタすぎーとヤジが飛ぶ。やけのはらのラップを真似なんかする。口々にハッピーニューイアー!とハグを交わす。愛する人たちがそばにいれば他に何もいらない、と私は思う。かつて、中学のとき、映画や音楽だけを愛し、ひとりで生きていけると確信していた私は、ここにはいない。決して多くはなくとも、こんなに素敵な夜を一緒に過ごすことができる友人たちが何人かいる。青春映画が美しいのは必ず終わりが来るからだとしたら、僕の人生は映画よりもだいぶ素晴らしいってことだ。そう、パーティーは止まらないし、私の青春は終わりはしない。メリークリスマス!
ウォールフラワー (集英社文庫)

『永遠の僕たち』『ヤング≒アダルト』『ローラーガールズ・ダイアリー』『おとなのけんか』..酔いどれ映画日記

タイトルは見た順に並べた。僕に感じたものを文章にする無限の才能と十分な時間があれば、掲題の4つの映画について個別に記事をこしらえるのだろうが、
残念だからどちらもない(特に才能の無さには驚くほどだ!)ので、まるっとぬるっと1つの記事を更新する。
金曜夜、仕事からの帰宅が深夜1時。相方がつくってくれた混ぜご飯と白ワインを飲みながらブログを更新するまさに花金。

というわけで、酔っ払っている中で4つの映画について。好きな順で言うと、
1位『ローラーガールズ・ダイアリー』(ドリュー・バリモア)
2位『ヤング≒アダルト』(ジョナサン・ライトマン)
3位『おとなのけんか』(ロマン・ポランスキー)
4位『永遠の僕たち』(ガス・ヴァン・サント)

1位、2位は甲乙つけがたし。この2作品を映画館で見ていなかった自分を呪いたいくらい。僅差で3位。
結構離れて4位。世間的評判はいいが残念ながら僕はのれなかった。
酔っ払いながら縦横無尽に語り尽くします!

 

■『ローラーガールズ・ダイアリー』(ドリュー・バリモア)

「彼女が出ればその映画は間違いなく面白い。」

そんな言葉が映画好きの間で納得感を持って語られるほど、元祖あげまんのドリューだが、出ても最強、撮っても最強ということを本作で証明した。

そんなドリューと、次のドリュー・バリモアを狙え!エレン・ペイジ(言わずもがな超絶傑作『JUNO』の主演!ああもっと映画出て!)が組めば、どう転んだって普通の映画に終わるわけがない。

ただでさえこんな青春ムービーに弱い僕だが、その中でも格別。
たとえば、各チームが集まって、お菓子や食べ物をぶつけ合うシーンの充実度は一体なんなのか。
それがスクリーンの先で行われているにもかかわらず、ああどうして自分がその場にいないのか、と感情を湧きあがらせる。
僕も、私も、「ローラーゲームやりたい!」と見終わった瞬間誰もが思ってしまうだろう、青春ムービーのお手本のような傑作。

支えるはドリュー・バリモアの映画作家としての才能。ローラーゲームのシーンの演出に酔いしれろ。
凡庸な映画監督には撮りえない、あれだけの登場人物がいながら、ひとりひとりがどう動き、どんなアクションが行われているのか、すべてを映像でわからせる演出力にただただ感嘆するばかりだ!ホイップ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■『ヤング≒アダルト』(ジョナサン・ライトマン)

エレン・ペイジといえば大傑作『JUNO』、ジュノといえば、ジョナサン・ライトマン。
先日の『Playback』あと飲みで、『ヤング≒アダルト』が今年ベストという声もちらほらあがる作品だが、これも未見。DVDにて。
冒頭からああこれこそ映画だよねというような粋な演出で、ああ、この感動『ロストイン・トランスレーション』以来!とついぞ叫んでしまいたくなる衝動にかられる。

とかく音の使い方が素晴らしい。
序盤、ほとんどサイレント映画と勘違いするような、音の使わなさ!男の名前が書かれたカセットテープが再生されるまでの15分間、音の記憶が一切ないくらいだ。
当然、物語の中盤のライブシーン(ああ、こんなつまらなそうなライブは初めてだ!最高に監督の悪意に満ちている。後のパーティーも反吐が出る!)
このシーンのために、音を異常なまでに使用したがらない演出だったのね!とまたジョナサン・ライトマンに惚れてしまうわけです僕たちは。最高!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■『おとなのけんか』(ロマン・ポランスキー)

もと演劇、ということで、そうだよねーというのがありありと伝わってくる。非常にシニカルな笑いに満ちた傑作だと思います。
この狭い空間だけで、ようやりました、とつい言ってあげたくなるようなそんな感じ。
ポランスキーの映画なんてほとんど好きじゃなかったけど、前作の『ゴーストライター』と本作、2本続けて魅せつけてくれる。
しかも全く違うやり方で。

見終わった後は是非この素晴らしい評を。なるほどね、とつぶやかざるをえん文章だ。
http://www.nobodymag.com/journal/archives/2012/0316_2330.php

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■『永遠の僕たち』(ガス・ヴァン・サント)
つまらなかった。
思い返せばガス・ヴァン・サントって『エレファント』以外一本も好きな映画なんてないことに気がついた。(『ミルク』は未見)
しかし、好きな映画監督のひとりだ、なんて思わせる力があるのが凄い。こわい。
唯一、よかったのは、主演のミア・ワシコウスカが僕の昔好きだった後輩に似ていることくらいだった。かわいかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■あわせて最近読んだ本。
阿部和重の『クエーサーと13番目の柱』『無情の世界』どちらもとても面白く読んだ。1時間くらいで読み終わった気がする。
そして佐々木敦がかつて出した映画批評集に、感涙にむせびなく日々だ。蓮實と同等、もしくはそれ以上に心を熱くさせる映画批評集がこの世にあったなんて。佐々木敦見直した。それについては酔っ払ってないときにちゃんと書く。

最近見た映画(『ロック・オブ・エイジズ』『デンジャラス・ラン』…)、読んだ本(『恥辱』『タイタンの妖女』)

■最近見た映画
・『ロック・オブ・エイジズ』(アダム・シャンクマン)
トム・クルーズがロックスターとか間違いなく面白いと思ってたけど、想像通り最高のハピエストムービーだった。
なにより主演のジュリアン・ハフがとにかく凄い。(映画中ずっと、『魔法にかけられて』のエイミー・アダムスかと思ってたのだけど全然違うようで、同じような話の『バーレスク』にも出てた子のよう。)たとえばはじめてのデート、山の上かどこで、彼に見せるくしゅっとした笑顔だとか、彼に別れ雨の中を歩くときの落ちた表情とか、まあほんとこんな表情できる子がいるのか、と驚くばかりで、アダム・シャンクマンの演出力の無さやカッティングの下手さはもう呆れるくらいだけど、それでも彼女のあの表情を捉えられたのだから、100点挙げたい。
そして監督がいかに下手であろうと、この映画の面白さに傷がつくわけではない。歩くだけで女の子を失神させて見せる、トム・クルーズのロックスターぶりは訳わからないけど、最高にかっこよく面白い、ディエゴ・ボニータの色々あるよね人生は物語も秀逸だ。ラスト、『ラブソングができるまで』を彷彿とさせる、幸福感に満ちたライブシーンで涙を流すことを抑えられはしない。

・『デンジャラス・ラン』(ダニエル・エスピノーサ)
映画が始まればすぐに、ダニエル・エスピノーサというほとんど無名の監督が、そこいらの映画監督とは格が違う、優れた映画作家であることに気づくだろう。
圧巻は、セーフハウスに敵が忍び込んできてわーっとやりあうシーンで、この映画作家は、デンゼル・ワシントンを「全く動かさない」なんてことを平気でやってのけてしまう。『デジャヴ』や『アンストッパブル』などを見て、どうしたって最前線で動いちゃう・活躍しちゃう、彼を知ってしまえば、決して短くないアクションシーンにおいて、彼を椅子に座らせたまま、「全く動かさない」なんて選択肢、凡庸な映画監督には思いつきすらしないだろう。
どう考えたってトニスコ好きだろうこの映画作家は、気づけば、敵同士であったはずのデンゼル・ワシントンとライアン・レイノルズを、まるで『アンストッパブル』のデンゼルとクリス・バインのように心を通わさせてみたりもする。
ダニエル・エスピノーサという名前を覚えておこう。アメリカ映画に、またひとり次の作品が楽しみな映画監督があらわれた。

・『ドラゴン・タトゥーの女』(デヴィッド・フィンチャー)
DVDにて再見。やはり最高でした。

■最近読んだ本
・『恥辱』(J.M.クッツェー)
クッツェー初読。若い作家で彼より面白い話をかけるはいくらでもいるだろう。しかし彼より美しい文章を書ける人は、この世にほとんど存在しないのではないか。そして、その文章を日本語へと変換させるという意味において、翻訳家という存在をこれまで読んだ本の中で最も意識した。海外小説において、翻訳家は、もうひとりの作家なのだろう、そんなことを考えた。都合、30ページ以上もドッグイアーし、この文章を大切にしようと思った。この小説に出会えてよかった。

・『タイタンの妖女』(カート・ヴォネガット・ジュニア)
ヴォネガットはかつて、高校のときだったろうか、『スローターハウス5』を読んだきりでいまや物語すら思い出せないくらいなのだが、こんなにも面白い話をかける小説家だったのか、と驚いた。まるでアルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ!』を想起させる展開で、たいそう興奮し続けた。早速、『スローターハウス5』を読みなおそうと、本棚を探したが、見つけられなかったので、アマゾンで買った。ついつい『猫のゆりかご』と『国のない男』もつられて買ってしまった。届くのがとても楽しみだ。

8:20-8:26

八月二十日(月):ひさびさに会社。トニスコの死を知る。帰宅後23時半・どうしても、なにか映画を見たくなって『彼女が消えた浜辺』<about Elly>(アスガー・ファルハディ)見る。一瞬の演出で、画面を一気にサスペンスフルに持ち込む演出に感嘆する。この監督他に何撮ってるのかなーと調べたらこないだブンカムラで見た『別離』も同監督で、あれはしょうもない映画だったので残念だ。

八月二十一日(火):夜、相方とご飯。友人がとんでもないスペアリブを食わせる店がある、とおすすめしてくれた武蔵小山の「キッチンリブス」にいこうとするが、何度かけても電話が繋がらずおよそ休業日だろうと。代わりに同じく武蔵小山の『リストランテ フィーロ』へ。前菜盛り合わせ、渡り蟹のトマトソース パスタ、鴨もも肉のコンフィなど。コンフィがでらべっぴんうまかった。9月に金沢にいくことを決めた。二十一世紀美術館にまた行けることが楽しみで仕方ない。

八月二十二日(水):アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』読み終わった。これで『レベッカ』と同時に読み進めた他の本たちをすべて先に読み終えることになった。ベスターはまるでウィリアム・ギブソンのようにハチャメチャ・パンキッシュな文章で、しかし全編貫く「執念」だけ全くぶれないでいた。結局のところハヤカワSFが何よりも面白いのだとあらためて感じた。

八月二十三日(木):夜、打ち合わせにて、こんなことしようぜ、と脇道にそれた内容でワクワクした。早速キックオフをセッティングした。

八月二十四日(金):ブルーハーブ/サ上とロ吉のライブ。うちの相方がフクダがちゃらいと信じてやまないことを告げたところ、一回会ったら清廉潔白さが伝わるはずと言っていたがとてもリスキーな行為だと思った。24:30・タケシと武蔵小山で合流し、つけ麺慶次で飯食って、マックで打ち合わせ。深夜3時解散。

八月二十五日(土):ぐだぐだぐだして、夜、特製サンドウィッチを作り、ビデオ屋で『50/50』(ジョナサン・レヴイン)借りてきて見る。この映画を見た人が90%同じことになるだろうが、終盤、セス・ローゲン演ずる親友の家のシーンでおいおい泣く。トニスコも同じ気分だったのだろうか。アナ・ケンドリックという子はとても魅力的なのでもっと映画に出てほしいと思う。朝まで『レベッカ』(デュ・モーリア)、いよいよ読み終わる。なんていう小説だろう、と思う。こんなに凄い小説は他に読んだことないのでは、とすら思ってしまう。今こそ、好きな作家にデュ・モーリアと挙げよう。

八月二十六日(日):いまから相方の誕生日のサプライズパーティーをしにいく。新宿へ向かう。

 

ルビッチとハワードとモーリア

久々に渋谷シネマヴェーラでルビッチとハワードの映画満喫。会員証を再度作ってもらったのだけど、かつてのことを思い出して、ほんとどれだけヴェーラヴェーラ行ってたのだろうとか、映画見て友人と会ってそのままアルコールやカッフェに興じ、話したことだとか思い出して、あーいかんいかんとなる。大学時代にルビッチをやるとなれば、上映後、振り返って座席を見れば、知った顔の1つや2つ少なくともいたはずだが、今日はおじいさんばかしで、一体みんなどうしたもんだろうか。元気でやっているのだろうか。

ところで見た映画は、『街角 桃色(ピンク)の店』(エルンスト・ルビッチ)と『姫君海を渡る』(ウィリアム・K・ハワード)の2本で、ハワードと言えば当然ホークスかと思いきやウィリアムだ。ルビッチは、もはや彼の映画に例外はないのではと思うくらい、今回も当然のように最高で、あの終わり方だけはどうなの、と言いたい部分もありつつも、大層楽しんで見た。どうしようもなく最高だった。ハワードはキャロル・ロンバードがはじめてスクリーンに出た瞬間、わおと驚かされ、それは彼女がどう見てもグレタ・ガルボに扮しているからで、僕がかつて名乗っていたがるぼるという名前はグレタ・ガルボが好きすぎるからなので、もうそれだけで大満足だった。

スタバで珈琲飲みながら『レベッカ』読み、読んだ人にしか分からないけどあの仮装舞踏会のシーンの準備~当日~翌日あたりのシーンでもうなんて衝撃的なお話かしらとスタバであわわわわ、帰り道の電車でも引き続き読んでいたら、気づいたら2駅も乗り過ごした。帰ってカオマンガイ作って、ひきつづきwordpressをせっせとやる。

『映画覚書vol.1』(阿部和重)

とてつもなく面白いのだが、なかなか読み進まぬ『レベッカ』(デュ・モーリア)と同時並行で4冊ほど本を読み進めているわけだが、その中で一番最初に読み終わったのは『映画覚書vol.1』と題された阿部和重の映画批評集だった。2004年の作品である。

多少、映画や小説に縁があるものであれば、阿部和重が小説を書く前、映画監督を目指し、映画学校に通っていたことは周知のことだろう(当然シネフィルだ)。そして、いまの日本の若手映画批評家といえば誰か、と問われれば、残念ながらかろうじて名前の挙げられる唯一の人物かもしれない。Amazonのレビューが評論家の言葉よりも信頼性が高い、と報じられたのは最近の話だったと記憶しているが、こと映画においても同様のことは起きており、「映画批評家」というくくりにおいて名前が認知されている人たちよりも、ブロガー/無名のレビュアーの方が知識も豊富で、よっぽど刺激的な文章が書くことがきできるという現状は全く嘆かわしい事態である。

内容はとても充実している。シネフィルであり、映画監督であった彼は、映画を語るにおいて十分な知識と経験を持っており、その言葉は説得力に満ちている。しかし、そのほとんど唯一の若手映画批評家の阿部和重をもってさえ、何かが足りないのである。蓮實の文章を読んでいるときのようなドキドキワクワク感がどうしても生まれない。理由は何なのだろうか。あくまで阿部和重は優れた「作家」であり、「映画の人」ではないからなのだろうか。客観的に論ずれど、この映画をどうしても見たい、と映画館に駆けつけさせる力は、彼の文章にはない。この500ページ近い評論集の最も面白かったところは、蓮實との対談における、蓮實の発言であったことが物語っているのだろう。

日本におけるほとんど唯一の若手映画批評家である彼でさえ、この程度であれば、日本の映画批評はそれこそ、危機的な状況にあるのではないだろうか。蓮實重彦の最新の著作『映画時評2009-2011』の最後のあとがきにおいて、教育者たらん彼が「若者がしょうもないから俺が見本を見せなければ」と言ったのは、もしかすると映画監督に対してよりも先に、映画批評家に対しての言葉だったのかもしれない。

8.11 生き残るための努力について

お昼は嫁友達のMさんと3人で、新宿「やまと楽」でランチ。1,500円で先付、前菜、メインと一通りそろってて雰囲気も良くてよかった。煎り豆ごはん激うまだったので、家でも作る。Mさんは、子供2人いる男性を嫁と別れさせたツワモノで、話をドキドキしながら聞いた。小悪魔的な魅力に溢れる女性でした。

嫁とMさんはカフェに行くとのことなので、ばいばーいして、新宿バルト9で『ダークナイト・ライジング』(クリストファー・ノーラン)。残1席の奇跡。ここ最近『アメイジング・スパイダーマン』『THE DEPTHS』と満席で映画見れずが続いているので、今日はラッキー。映画ブーム来てるのかしら。

映画終了後、紀伊國屋で話題の「ほんのまくら」フェアのぞく。本のタイトル見せずに、本の導入部だけわかる形で、本との偶然の出会いを、というフェア。人が集まって、みんなが興味を持った導入部の本をレジにもっていく。とにかく感動したし、これこそ生き残るための努力だよなーとしみじみと感じた。映画や本や音楽はこういった努力をとかくしていかなければならない、じゃないとほんと死んじゃうよ、というのはこないだの友人との飲みの場の主題だった。例えば、僕の仕事であるネット業界は、生き残るためにどうすればいいか/どうするべきか日々考え、努力し続けている。それを知っている僕にしてみれば、いまの映画/本/音楽という業界はとかく努力が足りないように、少なくとも、見えてしまう。その中での紀伊國屋の取り組みは、本当に素晴らしいと思いつつ、偶然の出会いに期待して一冊の本を購入した。

表紙にはこう書かれている。「小説にはおよそ始まりも終わりもない」。読者として、とても本を開くのが楽しみだ。

三連休/蓮實/二十一世紀

この三連休は少しは出かけはしたものの、映画もスクリーンで1本、家で1本を見た程度で、ほとんど家で過ごすことになった。渋谷にでも出れば、フィリップ・ガレルの新作を見ることもできるし、何度見ても再鑑賞の度に驚きや新たな発見をするだろう、ワイズマンやウディ・アレンの新作が上映されているにも関わらずだ。

その唯一の理由と言えば、蓮實重彦の『映画時評2009-2011』がAmazonから届いたから、であることは言うまでもない。

この三日間は、それが二十一世紀を生きる僕たちにとって、ほとんど唯一の娯楽であるがごとく、その本のページをめくり続け、「映画」という名の奇蹟を噛み締めることになった。

蓮實の文章をこれほどしっかり読むのは、自分の記憶を辿ったり、自分の読んだ本のノートを見る限り、大学生以来のことのようで、当時は授業中、映画狂人シリーズを読んではビデオ屋で未見の映画を探し、未読の彼の書をたまたま古本屋で見つければ、テスト時間も投げ打って教室で読んでいたことを思い出す。僕の「教育者」は、教壇に立つ名前もおぼろげなお爺さんより、蓮實重彦だった。

ほとんど五年ぶりに彼の文章に触れ、その文章の自信に満ちた力強さ(「想起しない人はいない」と言われ、それを想起しなかった当時の自分を恥じてみたり)、煽動力(『アバター』ですら楽天レンタルで借りてしまった!)を前に、かつて映画だけあれば人生を満たされる、と信じてやまなかった自分がフラッシュバックするのだ。

彼が取り上げる映画は、当然その書のタイトル通り、「2009-2011年」に撮られた新作についてである。だが、そのほとんど全ての文章に「二十一世紀」というキーワードが入り、そして、その二十一世紀の映画の存在を常に否定した上で、語られる。

たとえばジョニー・トーの活劇に満ちた素晴らしい小作『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』について、本書でのインデックスは『よくできたごく普通の映画の二十一世紀には稀な貴重さについて』とあらわされることはわかりやすい部分だし、かつて蓮實の文章を読んだことがある人は、彼が決して好意をもっていなかった二十世紀を代表する映画作家ジョン・カーペンターに、二十一世紀においては、ほとんど彼のような作家は残っていない、と語っていることに驚くだろう。

僕たちの世代がまともに映画と向き合い始めたのは、ほとんど二十一世紀である。過去「遅れてしまった感」を持って二十世紀の映画を見続けたことがある人で、蓮實のような「教育者」にこう語られれば、きっと二十一世紀に生まれたことを悔やみ、そして「遅れてしまった感」を強めるだろう。

蓮實の意図はなんだろうか。僕らは、最後にあとがきを読み、身震いするだろう。彼はあくまで僕たちの「教育者」であることに気づくのだから。