最近見た映画(『ロック・オブ・エイジズ』『デンジャラス・ラン』…)、読んだ本(『恥辱』『タイタンの妖女』)

■最近見た映画
・『ロック・オブ・エイジズ』(アダム・シャンクマン)
トム・クルーズがロックスターとか間違いなく面白いと思ってたけど、想像通り最高のハピエストムービーだった。
なにより主演のジュリアン・ハフがとにかく凄い。(映画中ずっと、『魔法にかけられて』のエイミー・アダムスかと思ってたのだけど全然違うようで、同じような話の『バーレスク』にも出てた子のよう。)たとえばはじめてのデート、山の上かどこで、彼に見せるくしゅっとした笑顔だとか、彼に別れ雨の中を歩くときの落ちた表情とか、まあほんとこんな表情できる子がいるのか、と驚くばかりで、アダム・シャンクマンの演出力の無さやカッティングの下手さはもう呆れるくらいだけど、それでも彼女のあの表情を捉えられたのだから、100点挙げたい。
そして監督がいかに下手であろうと、この映画の面白さに傷がつくわけではない。歩くだけで女の子を失神させて見せる、トム・クルーズのロックスターぶりは訳わからないけど、最高にかっこよく面白い、ディエゴ・ボニータの色々あるよね人生は物語も秀逸だ。ラスト、『ラブソングができるまで』を彷彿とさせる、幸福感に満ちたライブシーンで涙を流すことを抑えられはしない。

・『デンジャラス・ラン』(ダニエル・エスピノーサ)
映画が始まればすぐに、ダニエル・エスピノーサというほとんど無名の監督が、そこいらの映画監督とは格が違う、優れた映画作家であることに気づくだろう。
圧巻は、セーフハウスに敵が忍び込んできてわーっとやりあうシーンで、この映画作家は、デンゼル・ワシントンを「全く動かさない」なんてことを平気でやってのけてしまう。『デジャヴ』や『アンストッパブル』などを見て、どうしたって最前線で動いちゃう・活躍しちゃう、彼を知ってしまえば、決して短くないアクションシーンにおいて、彼を椅子に座らせたまま、「全く動かさない」なんて選択肢、凡庸な映画監督には思いつきすらしないだろう。
どう考えたってトニスコ好きだろうこの映画作家は、気づけば、敵同士であったはずのデンゼル・ワシントンとライアン・レイノルズを、まるで『アンストッパブル』のデンゼルとクリス・バインのように心を通わさせてみたりもする。
ダニエル・エスピノーサという名前を覚えておこう。アメリカ映画に、またひとり次の作品が楽しみな映画監督があらわれた。

・『ドラゴン・タトゥーの女』(デヴィッド・フィンチャー)
DVDにて再見。やはり最高でした。

■最近読んだ本
・『恥辱』(J.M.クッツェー)
クッツェー初読。若い作家で彼より面白い話をかけるはいくらでもいるだろう。しかし彼より美しい文章を書ける人は、この世にほとんど存在しないのではないか。そして、その文章を日本語へと変換させるという意味において、翻訳家という存在をこれまで読んだ本の中で最も意識した。海外小説において、翻訳家は、もうひとりの作家なのだろう、そんなことを考えた。都合、30ページ以上もドッグイアーし、この文章を大切にしようと思った。この小説に出会えてよかった。

・『タイタンの妖女』(カート・ヴォネガット・ジュニア)
ヴォネガットはかつて、高校のときだったろうか、『スローターハウス5』を読んだきりでいまや物語すら思い出せないくらいなのだが、こんなにも面白い話をかける小説家だったのか、と驚いた。まるでアルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ!』を想起させる展開で、たいそう興奮し続けた。早速、『スローターハウス5』を読みなおそうと、本棚を探したが、見つけられなかったので、アマゾンで買った。ついつい『猫のゆりかご』と『国のない男』もつられて買ってしまった。届くのがとても楽しみだ。

『Playback』(三宅唱)

友人でもある彼の映画について、なにかまじめに書くことはむず痒いし、そして、とても緊張する行為だ。

しかし、それでも文章を打ち進めようと思うのは、三宅唱の新作『Playback』が、彼の燦然と輝くフィルモグラフィの中でもやはり最高の傑作だ、と言わざるを得ないからである。

 

この世界に「トニー・スコットの真の後継者だ」と自信を持って言える監督がいるとするならば、やはり三宅唱しかいない。あらためてそう感じた。男2人を並べて、同じフレームに収めること、そしてその「関係」を描くこと、すなわち「演出」という行為において、ほとんどトニスコの映画を見ているような感動を覚えるし、男3人<ハジ/ボン/モンジ>を並べれば(『やくたたず』でその片鱗は十分に見せていたが)世界でも彼の右に出るものはいないのでは、とすら思えてしまう。彼の演出力を前にすれば、白黒だカラーだ(あるいはフィルムだ/デジタルだ)、ということですら重要でなくなるだろう。

三宅唱という監督の映画を、ぼくがはじめてみた『4』や『マイムレッスン』(どうやら6年も前らしい)以降、ほとんど唯一共通して描かれる主題めいたもの、があるとすれば、「遅れてしまった」感覚ではないか、と僕は考えている。映画中に遠藤が言うように「選択の結果」の「やっちまったなー」感あるいは「取り戻せない」感と言い換えてもいいだろう。(一体リア充代表の彼において、どんなトラウマがあって「遅れてしまった」感を描きたがるのか、と聞いてみたくもあるが!)
今作も冒頭から「遅れてしまった」感に満ちたシーンが連続して描かれる。当然映画は引っ越しから始まるわけだが、最初わけもわからず「引っ越し」にサインし、そして段々理解していく、ハジの「遅れてしまった」感といったら、痛快の極みだ。
そしていよいよ本作では、「遅れてしまった」感を取り戻すために、過去へとプレイバックしてすら見せる。その意味で本作は、彼が描きたかったものに対して、最も向き合った映画であるだろうし、故に我々観客は、彼の映画の中でも最も心惹かれるのかもしれない。

また映画中、何度も繰り返される「お前の話」「俺の話」あるいは「俺の話じゃない」というフレーズも印象的だ。なによりも、ロカルノ映画祭で使用されたであろう英語字幕バージョンでは、「your story」「my story」「This is not my story」という言葉群が字幕を踊ったであろうことを想像すれば、それだけで超かっこいいことだし、僕は興奮の極みに到達してしまう(勿論、英語字幕バージョンを見たわけではないので、僕の妄想に過ぎず全然違った場合はご容赦頂きたい)

 

思うところを書いてはみたが、難しいことを言わずとも、アメリカ映画のように、ただかっこよくて、ただ面白い、最高の映画である。日本では彼の名前を知らない映画人は、既にほとんどいなくなったのでは、とすら思うが、いづれ(きっとそこまで時間はたたないだろうが)、アメリカで彼は凄まじい映画を撮るだろうし、世界的に三宅唱の名前は有名になるだろう。僕は6年前からそう言い続けている。だから、いま彼が凄い勢いで駆け上がっていることが嬉しくてしょうがない。

その三宅唱の新作『Playback』は、11月10日からの渋谷での劇場公開する。是非駆けつけてほしい。

http://www.playback-movie.com

 

 

僕は本作を、ぴあフィルムフェスティバル@フィルムセンターで見たのだが、本人も言うように、フィルムセンターで彼の映画が上映されることが幸せでならない。次回は、三宅唱生誕100年、三宅唱死後のレトロスペクティブだろう。笑

そして彼の映画の魔力で集まった久々のメンバー8人でのプレイバックナイトも個人的には触れておきたい。ひさびさにシネフィルと触れて、2時間映画についてしか話さず、かつての興奮を思い出した。最後のその場で言及された映画を、記して、お茶を濁して終わりにしようと思う。いいと言われたものも、ぼろぼろに罵倒されたものも羅列する。(言及されるということが素晴らしい)

『スパイの舌』『やくたたず』『Playback』(以上、三宅唱)、『デジャヴ』『アンストッパブル』(以上、トニー・スコット)、『幸せへのキセキ』『あの頃ペニーレインと』『エリザベスタウン』(以上、キャメロン・クロウ)、『フェイス・オフ』(ジョン・ウー)、『エア・フォースワン』(ウォルフガング・ペーターゼン)、『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』『アメリカの影』『こわれゆく女』『ラブ・ストリームス』『フェイシズ』(以上、ジョン・カサヴェテス)、『私の中のあなた』(ニック・カサヴェテス)、『ブロークン・イングリッシュ』(ゾエ・カサヴェテス)、『シルビアのいる街で』『イニス・フリー』(以上、ホセ・ルイス・ゲリン)、『回路』『贖罪』(黒沢清)、『夜よ、こんにちは』(マルコ・ベロッキオ)、『ザ・タウン』『ゴーン・ベイビー・ゴーン』(以上、ベン・アフレック)『ミッドナイト・イン・パリ』『人生万歳』(以上、ウディ・アレン)、『ゾディアック』『ソーシャル・ネットワーク』『ドラゴン・タトゥーの女』(以上、デヴィッド・フィンチャー)、『桐島、部活やめるってよ』(吉田大八)、『ダークナイト・ライジング』(クリストファー・ノーラン)、『ヤング≒アダルト』『JUNO』『マイレージ・マイライフ』(以上、ジェイソン・ライトマン)、『ラブ&ドラッグ』(エドワード・ズウィック)、『東京上空いらっしゃいませ』(相米慎二)、『わたしたちの宣戦布告』(ヴェレリー・ドンゼッリ)、『ライク・サムワン・イン・ラブ』(アッバス・キアロスタミ)

一番笑ったのは、中学の時何見てた、みたいな話で、ある人が「クロキヨ(黒沢清)」といったとき、俺とFは、「(マルコ・)ベロッキオ」と聞き間違えて、すげー、となった話。

『ライク・サムワン・イン・ラブ』(アッバス・キアロスタミ)

アッバス・キアロスタミの最新作が東京で撮られた、その「奇跡」が起きただけで、現代日本に生きる僕たちは、足を運ばないことは恥ずべき行為である。そして、ある種義務的に足を運ぶ僕たちは、しかし後悔はしない、ということも保証したい。『ライク・サムワン・イン・ラブ』は映画でここまでの「恐怖」を覚えたのはいつ以来だろうか、と言わせるだけの力を持ったこれまた凄まじい傑作である。

別段オバケが出るわけでもないこの映画が、しかしどんなホラー映画よりも、恐怖映画たりえているのは、やはり「人間関係」こそが何よりも恐怖の対象となりうるからだろう。

優しかったおばあちゃんを「無視」することで携帯電話から聞こえる呪いのような音声(おばあちゃんは存在することから疑わしいのである種オバケ的でもあるが)。奥野匡が運転席、加瀬亮が助手席、そして高梨臨が後部座席に座る、嘘と歪んだ「人間関係」に満ちた密室の車内。真実を知っているもと教え子の存在。奥野匡をかつて愛した隣人。そしてあのラストシーン。

 

いやー、もう9.15、今日は何なのだろうね。

この前に見た『わたしたちの宣戦布告』で打ちのめされ、Bunkamuraからユーロスペースへの坂を昇るだけでも過酷な修行のようで、果たしてこのような凄まじい映画を見た後では、いくらキアロスタミでもかすんでしまうのでは…、なんて心配をよそに、『ライク・サムワン・イン・ラブ』もこれまたおっかない傑作で、9月15日に、この2本が公開されてしまった渋谷に何が起こっているのか、と。

「衝撃的」という前評判を聞いていたラストシーンはもう死ぬかと思った(笑)。恐怖映画『ライク・サムワン・イン・ラブ』見終わった後に駅まで向かう渋谷に、いつもの親近感は湧かず、どこか初めて来た見知らぬ街のようで恐怖すら感じた。

 

ちなみに今朝の記事で紹介している( http://daichitanaka.com/archives/301/ )素晴らしい予告編は、アッバス・キアロスタミ作らしい(笑)どうりで凡庸で語りすぎな他の予告編とは比べ物にならないわけだ。

それに関する加瀬亮が記すエピソードが秀逸だったので、最後に紹介しておく。

「ピリピリした緊迫ムードの中、現れた巨匠は本作の予告編を携えていたという。「それがあまりにも素敵で、皆でシーンとなりました(笑)。いったい自分たちは何を作っていたのか? って、目を合わせたほど完成度が高かった。」

http://cinema.pia.co.jp/news/160078/48104/

 

 

『わたしたちの宣戦布告』(ヴァレリー・ドンゼッリ)

 

9月15日、渋谷。なんという日、そして場所なのか。

それ一本でも、現在に生まれ出ること、それ自体が奇跡のような圧倒的に凄まじい傑作が、しかも二本も同時にこの日、この場所にて公開されたのである。

 

そのうちのひとつは、ヴァレリー・ドンゼッリという決して有名ではない女優が撮った、撮ってしまった映画である。近年、ほとんど死にかけていた「フランス映画」が、いま、ここに復活した、と高らかに宣言したい。

 

そう、今日、渋谷Bunkamuraにて公開されてしまった、『わたしたちの宣戦布告』という映画は、この2012年現在に、生まれ変わってトリュフォーが再びあらわれ、映画を撮ってしまったといっても大げさではない、ヌーヴェルヴァーグ愛に満ちた凄まじいまでの傑作である。まるで、ブレッソンのような赤と青の対照的な色彩、ゴダールのようなカッティング、ドゥミのようなテンポとミュージカル性。僕たちが愛してやまなかったヌーヴェルヴァーグ映画群にまたひとつ奇跡のような映画が生まれた。気づいた時には、ジェレミー・エルカイムは、ジャン・ピエール=レオーにしか見えなくなる。

 

 

全編にわたって、一瞬も隙を与えぬ映画ではあるが、特にロミオとジュリエットの息子アダムが検査に向かうからの10分間は圧巻だ。ヴィヴァルディの『四季』「冬」の悲劇的な曲とともに、イメージの連鎖ですべてを語り尽くす映画的手法に息を飲む。

檻に閉じ込められたアダムが検査に向かう姿は、その泣き叫ぶ様は、ほとんど極刑を宣告され、刑務所に向かう囚人のそれにしか見えない。その姿を見れば、医師の口から、はっきりとそう告げられるまでも無く、アダムはわずか1才数カ月にして、死刑宣告を受けるだろうと気づく。

言葉の理解できる齢ではない彼の代わりに、死刑宣告は、その母親のジュリエットが受けるだろう。そして死刑宣告は伝染する。母親が病院を滑走する姿は勿論だが、なによりロミオが宣告を受けるシーンが素晴らしい。父親より先に、宣告を知っている僕たちは、階段を一段ずつ楽しげに昇るロミオの姿を、死刑執行の首吊りに向かう最後の階段を昇る姿に重ね合わせ、昇りきったところで死を迎えることを、誰もが予感する。当然、階段を昇りきった瞬間に、携帯電話を鳴らすだろう。彼はその場で、首を吊られたように座り込む。

 

そして物語はカタルシスに満ちたラストシーンに向かい疾走する。手術前夜の笑い。手術が成功し、しかし、その腫瘍が悪性だったことを知ったあとのふたりの振る舞い。「強くなろう」という言葉。パーティーの後の涙。名前を呼ぶだけで、「私もよ」と答えるシーンの充実した時間。

 

2012年現在東京に住む我々は、何をおいても、「トリュフォーの再来」が生み出したこの奇跡を一目見るために、すぐに渋谷に駆けつけなければならない。

 

『わたしたちの宣戦布告』 渋谷Bunkamuraにて公開中。

http://www.uplink.co.jp/sensenfukoku/

 

ちなみに音楽も素晴らしくてサントラすぐにアマゾンで購入した。

『ラブ&ドラッグ』『ヴァージニア』and『Playback』

最近バタバタしてて、久々におうちのPCひらく時間が取れたので、
備忘録もこめて最近見た映画(しょーもなコメント付き)と最近見たい映画について。
しかし映画を見ること・本を読むこととブログを書くことの時間的なトレードオフをすごい感じる。
(かつては日常だったが、書かなくなって久しいからそう感じるのか。)

 

■最近見た映画
『ラブ&ドラッグ』エドワード・ズウィック
DVDでみた。DVDの裏面の紹介で見てたときはまさかこんな映画だと思わなかった。
完全に笑えるセックスムービーだと思ってたけど、やー想定外な重さだった。
よかったけど、間延びしてた。
『プラダを着た悪魔』以降のアン・ハサウェイは神のごとくかわいいし、
彼女の出る映画は間違いなくおもしろいというドリュー・バリモア的な立ち位置になってきている。

 

『ヴァージニア』(フランシス・フォード・コッポラ)
ひさびさコッポラ。ここまで自由にやれてる老人監督を見るとほほえましい。
またエル・ファニングがヴァンパイア(じゃないのか)的な役で、
彼女にゾンビとか吸血鬼とかをやらせたがる監督のきもちがとても理解できます。

 

■今週見たい映画

3連休でなにか映画を見たいなーと思ったら下記の映画がベターかと。
並び順は僕の感覚によるおススメ順。(上の2つは多分間違いない)

 

『わたしたちの宣戦布告』(ヴァレリー・ドンゼッリ)
たぶんはんぱない。『Declaration of War』というだけで面白いことを確信している。
同じ女優が撮った映画として『テイク・ディス・ワルツ』の汚名返上を期待して1番推し。
http://www.uplink.co.jp/sensenfukoku/

 

『ライク・サムワン・イン・ラブ』(アッバス・キアロスタミ)
キアロスタミが日本で撮った初めての映画、というだけで、同時代を生きる日本人として、
足を運ばないことが恥ずべき行為だと断言したい。超楽しみ。
http://www.likesomeoneinlove.jp/index.html

予告編もむちゃやばい。

 

『スリープレス・ナイト』(フレデリック・ジャルダン)
ストーリーを見た瞬間、大傑作『アンダーカヴァー』(ジェームズ・グレイ)を想起させ、
それだけで見たくなっている。
http://www.sleeplessnight.jp/

 

『デンジャラス・ラン』(ダニエル・エスピノーサ)
デンゼル・ワシントンの出る映画は、条件反射のように見ることが決まるので、今回も。
ただトニー・スコットの不在を悲しむ機会にならないことを祈る。
http://d-run.jp/

以上見た映画見たい映画でした。

 

そして言わずもがな『Playback』(三宅唱)も11月の劇場公開に備え、いよいよ先行上映。

9/16(日)水戸短編映画祭
9/19(水)ぴあフィルムフェスティバル ⇒僕はここでいく。京橋フィルムセンター
9/23(日)京都シネマ
http://www.playback-movie.com/

 

 

金沢、柴田聡子

土日に相方と金沢にいってきた。4年ぶり、2度目の金沢。まえいったときは仕事で、だけど仕事じゃないくらい楽しかった記憶に溢れ、ずっと行きたかったので嬉しい。信頼できる人たちのサジェストに基づいて過ごした2度目の金沢も最高に楽しかったし、とりわけ、なんたる偶然か、柴田聡子と出会えたことが金沢という地の思い出を決定的なものにした。

初日にオヨヨ書林という魅力的な女店主が営む古本屋で、J.M.クッツェーの『恥辱』と、ジャック・フィニイの『盗まれた街』を購入したあと、「柴田聡子」の名前が記されるフライヤーを見つけ、この名は僕の友人が言及、というか強く強くサジェストしていたシンガーソングライター(間違ってはいない表現だろうか)の名前で、日付を見れば彼女の歌うイベントは明日でまあなんてこと、ということで大いに喜び、早速相方にこれにいこうと強く説得する。

その日は金沢を大いに満喫し、ホテルに帰り、柴田聡子をyoutubeで聞いてみる。しかし全然響かず、顔もかわいくないように見え、一体この人のどこが、という状態で、ついには相方もわたし全然行きたくないから、行きたいならひとりでいけばと言いだす始末で大変なことになる。その信頼する友人からのサジェストだけで構築されていた僕の自信は、しかし映像を見てしまえば、全然良くないのではないかと疑念が湧くばかりで、次の次のとほとんどすべての映像を見ていたが、その疑念はついぞ払拭に至らなかった。結局翌日まで悩みぬき、最後、信頼できる友人がここまで言うのだから、という信頼だけに頼る形で、相方を説得し、ライブ会場に足を運ぶ。ほとんど間違いなくリコメンド元が彼でなければ行かなかったであろうというくらいの状態にあった。

3組の出演者の中で、柴田聡子は最後で、まずはyojikとwandaという人たちで、yojikの歌声はすごくて、うまいなーというところで、「若い人」という曲を歌うyojikの姿はまるでクラムボンなんかを彷彿とさせたし、「I LOVE YOU」という曲のテンポ感や、しゃべり口調なんかはとても好きで、詞もとてもよく、「私の曲は結局アイラブユー/自分を肯定するためのアイラブユー/うわついたラブソングでしかないのアイラブユー」なんて危うく涙が出かねんところだった。しばたさとこにまだ不安な気持ちがいっぱいの僕たちふたりは、それでもとても良い音楽が聞けたから、これで柴田聡子があれでも、まあよかったよね、という会話で予防線を張ることに勤しんだ。

次の加藤りまという人はひどくて、相方も僕もあちゃーという感じで、これはまた心配のボルテージは向上する。

そして柴田聡子が登場する。

くろぶちめがねと変な髪形の彼女はしかし、youtubeで見ていたようなぶさいくさんとは違って、とてもかわいらしい子であれれ?と言う感じでそして、ほかにも数人登壇し、柴田聡子が口を開く。「しばたさとこバンドです」すっかりひとりの弾き語りかと思っていた僕らは、へえとなり、あとで気づいたのだが、ギターはテニスコーツの植野さんで、ベースはラブクライの三沢さんで、どうりで上手いと思っていたけれど、なんて豪華な、この金沢の30人(それでも超満員!のお客さんのために)そしてドラムは現代音楽専攻の大学教授とのこと。

緊張は高ぶるも、果たして、柴田聡子が最初の一音を発したところで、すぐに自分の疑念が、吹っ飛ぶのを感じる。大きな口をあけて、精いっぱい歌うさまはとても魅力的で、しかしその口から発せられる音のどれもが儚くも、感情を揺さぶられ、一時間半もの間ほとんどの曲で鳥肌を立てた。「カープファンの子」なんて、一生この曲に終りが来ないで、ループし続けてくれたら、彼女の声を聞いていられたら、それはどれほど幸せなことだろうと思った。

少し長い前髪からのぞくころんとした目で、共演のプレイヤーたちを必死に見つめ、タイミングをあわせようとする姿なんて、とにかくかわいくて、あんな目で見つめられる三沢さんをとてもうらやましいとおもった。

歌詞もへえ、そうした発想ができてしまうのかこの子は、と驚くことが多かったのだけれど、たとえば「芝の青さ」なんて、コンプレックス持った女の子の歌(だと思うのだけど)、ふつう次生まれ変わったら「このニキビをなくして」「もっと足を細くして」なんて願いそうなものだけれど、彼女は次生まれ変わったら「別の星にお願い」なんてことを平気で言ってしまう。だからアンコールが終わり、どうしても彼女に感情を揺さぶられたことを伝えたく、「しばたさん」と呼びかける。お礼と、いきさつを話せば、「それは、いい夜でしたね」と返ってきて、僕なんかがこの偶然を運命的だなんて感じでしまう一方で、へえ、そういう発想になるのだ彼女は、とまた驚く。「つぎは東京で」と言う。つぎのライブがたのしみでしかたない。

相方も満足したようで、かえりみち、金沢の商店街をぼくたちは「カープファンの子」を熱唱しながらあるく。友人からおすすめされた、池田町バルバールというお店で、柴田聡子についてや、信頼についてなどをふたり饒舌に語る。とてもいい夜だった。なんだか夢のような。this night still dreaming.
それから2日間たったいまでもくちずさめば柴田聡子のうたが出てくる。すっかり、ぼくは柴田聡子に夢中です。

『桐島、部活やめるってよ』(吉田大八)

僕がRSSに登録している人たちが、揃いも揃って傑作、いとおしい、存在してくれてありがとう、と言う。

こうも周囲で騒ぎたてられては、全く見る気がなかったこの映画に足を運ばないわけにはいかない。文句のひとつでもつけてやろう、そんな意気込みで挑んだものの、全く打ちのめされてしまった。

最後の、屋上のシーン。もうほんと泣いた。涙の粒ではなく筋が頬を伝うのがわかった。映画館はそのとき二分されていた。劇場の後ろの方ではみんなが大声で笑い、一方前方は笑う人はひとりもいなかった。映画館にもカースト制度の残骸を見てとった。僕は高校時代、スクールカーストはBの中(Aのちょいヤンキーぽいやつとも話せるし、Cの人たちとも表面上は公平に接し、Dは軽くいじめる。ちなみにうちの学校には特A、つまり桐島はいなかった)に位置していたが、中身はこの映画における神木くんと同じこと考えていた。そのときスピルバーグ見に行かないやつとかほんとしょーもないと思っていたが、同じように、このシーンで笑うやつ、たぶんスクールカーストでいうとBの上以上だろう(でないと笑えるはずがない)ほんとしょーもない、と思った。

この吉田大八という映画作家が、大槻ケンヂの『グミ・チョコレート・パイン』を意識していることは、『グミチョコ』と同じシチュエーション、つまりマニアックな映画の上映で出会う少年少女や、映像と音をオーバーラップさせる屋上のシーンを見れば明らかだ。僕は『グミチョコ』信者で、漫画・小説はおろか、絶対つまらんでしょそれはという映画すら公開初日に足を運んだくらいなので、映画館のシーンとか、惨すぎて直視するに堪えず、いや勿論見るんだけど、こんなの酷い、と心の叫びをあげた。吉田大八は、橋本愛に、かつてカーストを自在に駆け抜けた山口美甘子と同じ素質を与えながら、決してAランクから降りさせないことで、神木くん演ずる「かつての僕たち」の夢や希望を打ち砕く。僕たちは、現実がそうであったことと同様に、憧れの少女との「グミ・チョコレート・パイン」を行うことすら、許されない。

屋上のシーンが、近年のいかなる映画における場面よりも美しいのは、神木くんa.k.aかつての僕たちが、スクールカーストAランクへの抵抗を見せること、そのカタルシスだけに尽きない。みなが示唆するように「キリスト」を文字って付けられたであろう「桐島」が見せる、万人への愛が、このシーンで結実するからこそ美しいのだ。同じく少年少女が8mmフィルムでゾンビ映画を作り上げる『SUPER 8』は、エル・ファニングという少女の存在によって、映画がはじめて完成した(列車が迫ってくる瞬間のエル・ファニングの見せる表情は映画史に燦然と輝くものだ)。しかし『SUPER 8』とは異なり、憧れの少女との交流を許されない神木たち映画部は、「女性不在の映画」を作るしかない。「女性不在の映画」なんて映画ではないという、ということを経験から十分に知っている神木くんは、長髪の男子映画部員を女装させるしか選択肢は残されていないだろう。しかし、「桐島」の万人の愛は、神木くんたちですら、見捨てはしない。自身が、屋上から飛び降りる「幻想」を見せることで、みなを屋上に集結させるのだ。そうして、神木たちの撮る映画は、橋本愛の限りなく美しい表情を捉え、奇跡の映画は完成するだろう。「桐島」の起こす奇跡は、それだけに留まらず、橋本愛のスクールカーストをぶち壊す平手打ちや、東出昌大の成長・越境、そして交流を生みだすだろう(あの「告白」のシーンの奇跡のような美しさは一体何だったのだろうか)。

あらためて言おう。「桐島、部活やめるってよ」という、日本映画の新たなる金字塔たる名作が生まれたことを、僕は両の手ばなしで喜びたい。うれしくてうれしくて仕方ない。

『テイク・ディス・ワルツ』(サラ・ポーリー)

予告編、『ラジオ・スターの悲劇』が流れる中、トロッココースター乗るシーンを初めて見たときから、ものすごーく楽しみにしてた『テイク・ディス・ワルツ』を見た。監督が役者ってのがやはり懸念事項で、そのような映画においてほんとに物凄いのにあんまり出会ったことないので心配だ(ベン・アフレックのアメリカ映画2本とショーン・ペンの初期作品とドリュー・バリモアの『ローラーガールズ・ダイアリー』くらいだろうか思いつくものは。ジョン・カサヴェテス、クリント・イーストウッドのことをわざわざエクスキューズすることは野暮だろう)。そういう心配はあたるもので、最初の1時間の緊張感も躍動感も一切ない映像の羅列にはとにかく、あーやっぱりやっちまったなー、というのが正直なところだ。ホセ・ルイス・ゲリンの『シルビアのいる街で』を見た後に、あのストーキングシーンを見させられる時間はなにかの試練かとすら思えてしまう。

『ブルー・バレンタイン』がそうであったように、撮る人が撮れば素晴らしい映画になりうるだろうこのテーマなのに、もうずっと眠気を耐えうるに必死だった。となれば映画を見る目的はもはやあのトロッコジェットコースターのシーンを見ることで、そこまではなんとしても、となんとか眠ることを耐え忍ぶ。ところが、浮気相手がリキシャで旦那(セス・ローゲン)と嫁(ミシェル・ウィリアムズ)乗せるところがとにかく素晴らしく、あの心の揺らぎ・筋肉に目を捕らわれる様はなかなか描けるものではないし、そこから、トロッココースター含めいくつか充実したシーンが存在したことは伝えておこう。ホームパーティーのシーンであの曲を選ぶことができたのだから、サラ・ポーリーという人はとにかくセンスは良いのだろう。

ただいかんせん映画を見ていなすぎで、例えば心が揺れ動いた嫁が夫に「告白」するシーンがばっさり飛ばされてしまうことは、「告白」がいかに映画において重要なシーンとして撮られ続けてきたかについて全く経験がないことを証明している。『桐島、部活やめるってよ』のラスト、神木くんの「告白」の充実さに触れれば、「告白」シーンをカットするなんて、よもや想像もできない行為だろう。こういった経験のなさを露呈し続ける行為一つ一つでこの監督への信頼は失われてゆく。役者出身であるから撮れたのかもしれない、ラストシーン、久々に会った旦那のもとを去るときのミシェル・ウィリアムズの表情がとてつもなく素晴らしいだけに残念だ。

しかしミシェル・ウィリアムズをウィキペディングしてみたら、ヒース・レジャーの元妻なのね。離婚して数ヵ月後に彼が自宅で薬物摂取で死んでるなんて、誰かその話を映画化してください。ということを知れたのでよかったかもね。