『次の朝は他人』(ホン・サンス)と『Playback』(三宅唱)の共感。

1月14日(月)、その日東京は稀に見る大雪だった。
そんな日に、『次の朝は他人』が見せる美しい雪のシーンに、「偶然」出くわした観客は、その自身の映画体験をなんらかの理由づけをしてみたくなる欲求にかられるだろう。
(当然、劇場を後にした誰しもが目の前の悲惨さに、やはり映画中における雪は幻想でしかなかったのか、と思わざるをえないわけだが。)

映画における雪と言えば、夜の台北から、雪の夕張へと浮遊して見せる『ミレニアム・マンボ』(侯孝賢)が最も印象的に残っているわけだが、『次の朝は他人』の主人公・映画監督が雪中に見せる表情は、あるいは突然のキスシーンは、決してそれに劣らぬ素晴らしいシーンを持つ、冬の映画である。
朝になることをサインに、主人公だけが、おぼろげに記憶を残しているかのような素振りを見せつつも、他の誰もが記憶を失くし、ほとんど唐突なまでに映画は反復する。
朝になる度に、繰り返す、しかし少しずつ違う、僕たちはその「違い」(あるいは「同じ」)を発見する優雅な遊戯に没頭するだろう。
主人公自らが言うように、「人は無数の『偶然』を勝手に紐づけ、『理由づけ』したがる」ものなのだから、僕たちはその宣言通りに、「反復と違い、そして同じの間」を楽しめばいい。これも1つの映画的楽しみなのだ。

その甘美な楽しみに身をひたらせていると、そう言えば最近も同じような遊びをした気がするな、と思い出す。
そう、三宅唱の『Playback』である。(書いていて思い出したが、彼が生まれ故郷の北海道で撮り上げた前作『やくたたず』も素晴らしい雪の映画であった。)『Playback』もその名の通り、あるサインで主人公だけが記憶を残したまま映画は繰り返す。2度目には、その違いを楽しむことに没頭したものだ。
さらに、共通点はそれだけに留まらない。モノクロの美しく、そして実験的な映像。かつては映画で名を馳せたが、現在は落ち目、という主人公の境遇までも類似している。

全くこのような映画たちが、ほぼ同時期に公開されたことは、なんたる「偶然」か、と喜びを隠せない。
この偶然を「韓国と日本で映画同士が呼応しあっているのではないか」なんて理由づけして遊んだとしても、誰にも責められはしないだろう。

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『Playback』(三宅唱)

『ファースト・ポジション 夢に向かって踊れ!』とステイシー・ペラルタのアクチュアリティゆえの輝き

バレエに関する映画や小説が好きだ。バレエのドキュメンタリー映画なんて公開されればそれが全然名前を聞いたことのない監督であれ、つい映画館に駆けつけてしまう。『ファースト・ポジション 夢に向かって踊れ』(ベス・カーグマン)もBUNKAMURAで観て、とてつもなく感動した。若者たちのがんばってる姿とか、その先の挫折と栄光ってだけでもう超泣いてしまうのだけど、それがバレエだとなおさらだ。ちなみに一番好きな漫画は『舞姫 テレプシコーラ』(山岸涼子)だったりもする。

たぶん作り手のアクチュアリティの問題なのだと思う。いかに自分の話を語っているか、というのは作品の魅力にダイレクトに跳ね返ってくるのでないか、と考えている。そう、バレエの映画を撮る人やそれについて書く人は、ワイズマンこそ違うかもしれないが、みんな過去にバレエやっているのだ。
ハリウッドのスパイ映画とかSF映画、超おもしろいし超大好きだけど、昔ソ連のスパイだったり前職CIAだったって人や実際にエイリアン昔襲われたことがあってあのときマジ怖かったんだよね、ということを伝えたくて映画撮りましたって監督は多分ほとんどいないはずで、そこにアクチュアリティというものは皆無。(アクチュアリティがないはずなのに書けるということがまじで凄いんだ!と最近飲んだ素晴らしい私小説を書く友人は言っていたし、その通りだと思っている。)
その点バレエ映画はアクチュアリティのかたまりのようなものだ。それがドキュメンタリーであれば勿論のこと、フィクションであっても作り手が語っている物語を何よりも理解して、伝えてくるわけだ。今作のベス・カーグマンも、山岸涼子も勿論バレエ経験者でその辛さも苦悩も、舞台で成功したときの喜びも知っている。ガヤのライバル心(この映画で最も素晴らしいシーンはガヤのダンス中の表情だろう)も、ミケーラの怪我、そして自分を信じられなくなる辛さも、あるいはジョアンの栄光さえも。そんな映画が素晴らしくないわけがないだろう。

同じ理由でサーフィン映画やスケボー映画も好きなのだろう。サーファー以外の撮ったサーフィン映画なんて見たことあるだろうか?
その中でもキングオブアクチュアリティはステイシー・ペラルタ(『ボーンズ・ブリゲード』『ライディング・ジャイアンツ』『ロード・オブ・ドッグタウン』)だと確信している。『ボーンズ・ブリゲード』の映画中、「ボーンズ・ブリゲード」の解散についてステイシー・ペラルタが泣きながら語る昔話が最高だ。「俺がボーンズ・ブリゲードを作った理由は、Z-BOYSで叶わなかった、一生続く最高のチームを作ること、ということをどうしてもやりたかったんだ。でもやっぱり無理だった。」と。それを30年後に当時のメンバーみんな集めて映画作って語ってしまうのだから、やはりステイシー・ペラルタほど愛すべき監督はいないんじゃないか、と思うのだ。

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『理想の出産』(レミ・ブザンソン、フランス)

先の「2012best」でも挙げたように、僕にとって、2012年は『わたしたちの宣戦布告』の年だった。
ボーイミーツガールからの結婚・出産、そして子供が難病だと知り立ち向かう同作は、その与えられる過酷な状況下にも関わらず、ロメオとジュリエット2人の夫婦の絆ゆえ、最後の砂浜・海にたどり着き、ハッピーエンドという形で物語は終結する。

だが、僕たち誰しもが経験があるように、男と女の物語の常は、ああうまくはいかないものである。
通常、あのような状況下では、協力が足りないと女性は男性に強く当たり、男性は女性のやつあたりに我慢を重ねる。やがて我慢も限界に達した男性は、たまった怒りを女性に放出する。一度は愛し合ったが、所詮は他人同士だったが故、夫婦と言う絆は、脆く崩れやすい。お互いを大切にし、支えあうことを忘れれば、それはまた別の形での物語の終結となるだろう。

前作がフランスでスマッシュヒットを飛ばし、アルノー・デプレシャンと並んでセザール賞ノミネートされた新鋭レミ・ブザンソン監督の『理想の出産』は、ボーイミーツガール、結婚、出産という流れまでは『わたしたちの宣戦布告』と同様の展開であるが、子供が難病でなかったところから話は変わり始める。支えあわねばならぬ必然性がないが故に、妻は出産が故にうまく立ち回らなくなった自分の私生活(友人関係や助教授としてのキャリアステップ)の矛先を、子供を通して夫に向けるだろう。世の男が皆そうであると同様に、夫も妻の気持ちを汲みとりきれず、最初は優しい・理解のある男性を演じているものの、いつしか限界が訪れる。これ以上は踏みとどまらなければまずい、そんなサインは何度もあったにも関わらず、落ち着いて考えれば誰よりも大切で愛している相手に対して、「君と一緒にいるのはもう無理だ」と激昂に身を任せ口に出してしまうだろう。

『ブルーバレンタイン』、『(500)日のサマー』、『ルビー・スパークス』がそうであるように、男と女の常はそういうものであり、一度そうなればハッピーエンドは幻想である。ラストシーン、2人は初めてデートしたカフェで、再会するだろう。その先の未来が明るいかは、誰もわからない。一度の人生失敗しないためにも、映画でしっかりと予習をし、いざそんなときが来れば、ロメオとジュリエットのように、僕たちは立ち振る舞いたいものである。

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