『グッバイ・ファーストラブ』(ミア・ハンセン=ラブ)

渋谷イメージ・フォーラムにて開催中の「フレンチ・フィーメイル・ニューウェーブ」。
引越しをしたため、足がなかなかに遠のいていた渋谷に久々に訪れ、ようやく今日観ることができた。3作品を朝から晩まで続けて。本当幸せ。興奮で眠れない。

なんといっても、『グッバイ・ファーストラブ』である。近年最も充実した時間を与えてくれた1本でもある『あの夏の子供たち』を撮ったミア・ハンセン=ラブの新作だ。
同時上映された2本、十分に語るに値する『ベルヴィル・トーキョー』(ヴァレリー・ドンゼッリのあの愛おしさ/狂おしさ。)、デプレシャンのテーマをアルトマンが撮ったかと見まがう傑作『スカイラブ』も、ともに素晴らしかったが、正直ハンセン=ラブの新作を前にしては1つの映画に過ぎない、と言いきってしまいたい。それほどまでに『グッバイ・ファーストラブ』はまさに1年に1本現れるかどうかの、圧倒的な傑作である。

 

映画は、少年シュリヴァンが自転車でパリの街を駆けるシーンからはじまる。自販機でコンドームらしきものを手に入れた彼は女に会いにいくのだと、僕たちは予感する。その予感は想像を超えた形で的中する。裸の女がベッドでその身体を毛布に隠して待っている。まだ胸の膨らみを男に見られることにすら慣れていない少女のようだ。誰にとっても魅力的な容姿を持つその女の名をカミーユと知る。カミーユとシュリヴァンのその場でのやり取りはしかし、二人の関係が既に終わりかけであることを示唆する。男が私の全てであるという女に対し、男は女のことを愛してはいるが自分を構成する一部でしかなく、重くなるなら別れると簡単に言ってのける。大切な祖父の形見すら、自分の旅のために簡単に売ってしまう、欲望に従順な男の南米の旅によって、誰もが予感したとおり、二人は離れ離れとなるだろう。最後に届いた手紙には、「浮気現場を見るかい?」という酷な言葉のあと「愛しているが別れよう」と書かれる。

数年が経過し、カミーユは建築家を志している。「スペース(=愛の喪失)を埋めるため」と言う。後に付き合うことになる建築家ロレンツとのやり取りにおいて、「記憶は闇だ」「記憶力が悪い。2度体験しなければ記憶できない」と語られる。そしてシュリヴァンとの再会。10年近くが経過し、すっかり大人になった二人の歩みの間、関係はしかし、かつてを懐かしむようなものではなく、どこか不穏さを携える。再びの自転車、川、麦わら帽子、いくつもの「反復の合図」は合ったにも関わらず、「1度だけの体験では記憶できない」カミーユはまたもや、別れの手紙を受け取ることになるだろう。愛の頂点においての、その愛の喪失を繰り返すことになる。

 

この傑作を前にした我々は、自らの持つ語彙や映画的知識を駆使して『グッバイ・ファーストラブ』について語ろうとするだろう。このシーンは○○を示唆する、アサイヤスの影響が、ブレッソンのこの映画を参照とした・・・。この映画を前にして口を閉じることは許されぬ、そのような切実さ、義務感すら覚える。しかし、我々が『グッバイ・ファ-ストラブ』についていかに語ろうが、決してこの映画には追いつくことができない。なぜなら、ハンセン=ラブは、いざ撮るときに、他の映画作家がやるように何かを意識的に撮るという行為をやっているようには見えないからだ。

彼女自身、「後になって、何処から影響が来たのか、何処からインスピレーションが来たのか、考えられるようになるという感じ」と語るように、彼女の映画のみずみずしさは、何かを意識して撮影を行うことで得たものではなく、ただ感覚的に「大切だ」と思った瞬間をキャメラに収めた結果、自然と生まれ出たもののように見える。難しいこと考えると疲れちゃうじゃない。そんなことすら言ってのけるハンセン=ラブの姿が目に浮かぶ。

そのことは、この映画の魅力が結実した瞬間が、カミーユ(ないしカミーユとシュリヴァン/ロレンツ)が川沿いで/岸辺で/パリの雑踏で「歩く」シーンであることからもわかる。言葉も何も必要ない。難しいことは考えない。彼女(たち)が歩く、それをフィルムに焼きつけることが何よりも大切だと思うから、ハンセン=ラブは撮るのだ。生み出されたフィルムの愛おしさは、観たもの誰もが知る通りだ。そしてその豊潤さを前に思うだろう。彼女たちの動き/感情、顔身体/水辺にあたる光そして影、あるいは背景の信号機の見せる黄と青、トラックの赤、果ては通行人ひとりひとりでさえも、何一つ欠けてはこの魔力的な美しさは存在しえない、と。

完璧なショットを撮るとは、シーンを構成する要素が何かひとつでも欠けることすら許されぬ、かつ決して過剰ではない状態を切り取ることだと思っている。完璧なショットによって、映画は、人を引き込んでやまない特別な力を備える。それこそが映画の奇跡というものだ。多くの映画作家は、その完璧なショットを自らの映画に焼きつけよう、と必死に計画し試行錯誤する。しかし、そこには偶然の要素が介在する。たまたま光が刺した、たまたま雨が降ってきた、たまたま電車が通った。そうした偶然が、映画の奇跡にはどうしたって必要だ。

しかし、ハンセン=ラブはその奇跡を自由に生み出すことができるようだ。彼女がキャメラを向ければ、奇跡の成立に必要な偶然が起こる。だから完璧なショットをいくつも生み出すことができる。まるで、ハンセン=ラブは映画の神に選ばれているようだ。そうとすら言ってしまいた欲求にかられるほど、彼女の映画は完璧なショットで満ち溢れている。かつてレオス・カラックスがそうであったように、たとえ彼ら以外が映画をいかに見ようと、映画における知識/経験をいかに積み重ねようと、ハンセン=ラブは超えられない。そう言い切ってしまうことすら憚られぬ『グッバイ・ファーストラブ』。同時代を生きる僕たちが、この映画を見ずして、映画について語ることは許されない。

5月10日まで渋谷イメージフォーラムにて公開中。大阪、京都、福岡、名古屋、仙台、横浜と公開予定。

http://mermaidfilms.co.jp/ffnw/theater.html

あの夏の子供たち DVD

 

4月1日、映画、ホアキン

ようやく、ようやくネットが復活した。月々若干のお金をケチったばかりに、ネットが繋がらない日々を過ごしており、ブログの更新もできずにいた。前回更新がどうやら1月のようなので、約3か月ぶりとなる。あのときは雪もふっていたが、今では大岡川に満開に咲いた桜すら散ってしまった。ブログを更新しない、即ち、映画や音楽に触れる頻度は多くなるということ。というわけで、4月の日記でも書いてみよう。

最近は、とある事情により時間をもてあます日々を送っている。(そのあたりはまた5月入るころに詳細を書こうかと。)毎日忙しい現代人の方々からしたら羨ましくて仕方ない、もはや刺殺されかれない日々を謳歌している。やはり時間があれば、と映画を観るわけで、4月1日ファーストデイは平日とか関係なく『愛、アムール』(ミヒャエル・ハネケ)、『ザ・マスター』(ポール・トーマス・アンダーソン)を観る。

最近映画を観ようとするたびに不安に襲われる。「自分が不感症になってしまったらどうしようか」、という不安である。どんな映画もかつてのように愛せず、かつては大いに涙し、心を震わせただろう瞬間でさえも、平然と、ドントムーブ、私。みたいになったらどうしていこう、と。僕が生きた二十数年のうち、少なくとも15年の間は映画を信頼し、映画に身を捧げ、映画に寄って生きてきたようなところがあるので、自分が不感症になった瞬間、はて私は、となってしまうだろう。全く脆い。いくつか兆候はあって、今朝家で観た『遠雷』(根岸吉太郎)とかもう全然感動を覚えない。最後に歌うとこと石田えりの乳房くらい以外に、少しも心動くことなく138分は過ぎ去った。エンドロールが流れ、はっと気付く。私は、この2時間強、なにを観ていたのだ、と。苦痛とはこういうことだ。珈琲はすっかり冷めてしまった。

だから最近の映画鑑賞のスタイルとは、私にとって何よりも恐怖の、自分はまだ映画で感動できる、ということを確かめるために観るようなところがあるのだ。実際にこの4月は、いくつもの素晴らしい映画たちと出会うことができ、私はまだ生きている。ここにいる。かつてほど、涙を流すことはなくなった。私は渇いていく。

また何を言っているかわからなくなった。
ファーストデイの話に戻ろう。ミヒャエル・ハネケもポール・トーマス・アンダーソンも私の人生にとってはわりかし、どうでもいい人たちで、ハネケとか嫌いな監督3人挙げてと聞かれれば、いの一番に挙げたい監督であるし、次はトリアーで、アロノフスキーと並ぶだろう。さらにデヴィッド・クローネンバーグもすごく嫌いだ(今週公開の『コズモポリス』は楽しみだ。ビジュアルが『ゴシップガール』ぽくてすき)。ポール・トーマス・アンダーソンは全然嫌いじゃないけど、『ブギーナイツ』よかったよね、確かというくらいで思い入れはない。大体長い映画が多すぎる!映画のためにならない。映画を撮る方々は、人に観てもらうために、大切な時間の一部を頂戴していることにもっと意識的でなければならない。長い映画が許されるのはハリウッドであり、長い映画を撮りたいならハリウッドで撮れるくらいの人材になってもらいたい。

『愛、アムール』は、ハネケという存在は、やはり僕の人生にとって無縁であり続けることを決定的にした作品であり、特に何ら心動かされなかった。おばあちゃんがロボットみたいに突然動きが止まるので、笑ってしまったくらいだ。パルムドールとか取る、こういう作品で心が動かされないと、ああ、私はやはり不感症になってしまったのかと、びくびくする。

だから次に観た『ザ・マスター』が本当に素晴らしくて、私は生を実感する。冒頭の海、青、そしてホアキン・フェニックスの顔がドンと据えられたショットでぶわっと、涙で頬がべちょべちょになる。「おかえり、おかえりホアキン」、私は心の中でつぶやく。同じ現象は数日後『ホーリー・モーターズ』を観たときにも起こったことは言うまでも無い。「おかえり、おかえりカラックス」。

『ウォーク・ザ・ライン/君に続く道』『アンダーカヴァー』『トゥー・ラバーズ』僕の大切な映画にはいつも彼がいた。言いすぎだ。しかし、あのホアキンのバチっと固められた髪型、額、そして今にも人を殺しかねん目つき、あるいは不気味さ、がスクリーンに映る、にじむだけで私は幸せで昇天しそうになる。そのホアキン演ずるフレディの居場所として全く相応しくないデパートのシーンのあまりの素晴らしさはどうだろうか。「4999ドル」と当時の人々にとっては圧倒的に破格だろう毛皮のコートを売り歩く女性を追うキャメラの滑らかな動き。ジャケットとタイでぴしっと決めたホアキンがキャメラを携える佇まい。客にふっかける喧嘩。映画は冒頭から一瞬も揺るがずに、疾走する。

ここまで書いてみて、お腹がすいてきた。近くの『YOHO』というお店がとても美味しいとOZマガジンに書かれていたので、ワインでも飲みにいこう。そう決めた僕はこの日の日記のタイトルを「4月、映画」から、「4月1日、映画、ホアキン」に修正・変更することで、何かを成し遂げた気になる。僕の人生はこうせこたらしい調整、調整を重ねることで何かを言い訳し、取り繕うことを繰り返している。だからといって、特に気にしていない。僕の人生にとってそれは大して大事なことではないのだ。簡単に取り繕えることならば取り繕えばいい。僕にはもっと大事なことがあるのだ。オーディオからはEVISBEATS feat 田我流の『ゆれる』が流れてきた。身体が酒を欲している。

『ザ・マスター』最高です。

ウォーク・ザ・ライン/君につづく道 DVD
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