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優雅なスモーキングタイム、あるいは痛み。『愛の残像』『君と歩く世界』『偽りなき者』

ぼくたちはいつから、煙草を吸うことの優雅さを失ってしまったのだろうか。
フィリップ・ガレルの『愛の残像』は、劇中、たった一度だけ、男と女が煙草を吸う瞬間がある。恒常的に煙草を摂取するだろう二人にも関わらず、もったいぶるような、たった一度の禁断の瞬間、その表情を観ていると、ああ私たちは煙草はこう吸うべきなのだ、と自らの行いを見つめ直したくなる欲求に駆られる。特に何も考えずにシガーケースに手を伸ばすような行為や、喫煙所に来るや否や、ひたすら吸うことを繰り返す、「吸うこと」自体が目的化した喫煙なんてもってのほかだ。初めてそれを口にしたときを思い出してみようではないか。『カサブランカ』のハンフリー・ボガードに憧れ、かっこいい吸い方を探求したあのときの気持ちを。ゆっくりと10分間もかけて、思考をめぐらしながら、フランス料理の2時間かけるディナーのごとく、優雅なスモーキングを行う。『愛の残像』は久方ぶりに、そんな優雅さを教えてくれる、素晴らしい映画だった。とっくの昔に煙草を止めている私には一切の関係も無い話だ。

あるいは痛みとは。
『君と歩く世界』と『偽りなき者』。今年のベストに確実に並んでくるだろう強度を備えた映画だ。程度や種類の差はあれ、いづれも描かれる人物に悪者はいないがゆえに、生み出される痛みに、ほとんど直視できない瞬間もあって、ただひとり声を潜めて涙を流すを繰り返す。苦手な映画、という表現はあまり好まないが、食指が動かない映画群はあって、その群に入ってしまうすれすれの所を滑走し、見事に着地したという印象。どちらも観てから相応の時間が経つにも関わらず、余韻が残り続けていて、同様の痛さはありつつも『ウィ・アンド・アイ』や『セレステ∞ジェシー』とはやはり一線を画すのだろう。(『ウィ・アンド・アイ』『セレステ∞ジェシー』も相当好きな映画たちだ)マリオン・コティヤール、マッツ・ミケルセン、これらの作品がここまで屈しがたい魅力に満ちているのは、彼らの存在あってこそ、ということも最後に言っておきたい。

『リンカーン』(スティーヴン・スピルバーグ)

使命、という言葉が思い出される。僕のノートにも最近その言葉と決意を記した。それを成し遂げることが、自分が生まれてきた理由だとばかりに、信条を貫いたリンカーンの姿に、まさにこう生きたいという男の姿を見る。一方、真の理想のために信条を曲げるスティーブンスの何よりも強い意志に、圧倒され、発する言葉を失う。

最近観たポツダム宣言受諾から公布までの24時間を描いた『日本のいちばん長い日』(岡本喜八)との一致性に驚く。『日本のいちばん長い日』が、世界大戦に燃える陸軍を抑えポツダム宣言を公布に導いた二人の男(鈴木首相-笠智衆/阿南陸相-三船敏郎)の24時間を描いている一方、『リンカーン』は南北戦争中、その1つの発端となった奴隷制の廃止に導いた二人の男(リンカーン-ダニエル・デイ=ルイス/スティーブンス-トミー・リー・ジョーンズ)にスポットを当てる。双方素晴らしい映画であるだけに、およそ50年の時を超えての、その共振に、喜びを隠せない。

そして、これを撮ったのは他の誰でもなく、スピルバーグだ。映画誕生から100年において、最も偉大な映画監督が、人類の歴史上、最も偉大なことを成し遂げた男を描く、まさに撮られるべくして、撮られた映画だ。アメリカ国民にとって、いまだ最も愛され、尊敬され続ける男、リンカーンを俺の手で映画化するんだ。映画の根元を支える、スピルバーグの使命感/強い意志は揺らぎはしない。

『グッバイ・ファーストラブ』(ミア・ハンセン=ラブ)

渋谷イメージ・フォーラムにて開催中の「フレンチ・フィーメイル・ニューウェーブ」。
引越しをしたため、足がなかなかに遠のいていた渋谷に久々に訪れ、ようやく今日観ることができた。3作品を朝から晩まで続けて。本当幸せ。興奮で眠れない。

なんといっても、『グッバイ・ファーストラブ』である。近年最も充実した時間を与えてくれた1本でもある『あの夏の子供たち』を撮ったミア・ハンセン=ラブの新作だ。
同時上映された2本、十分に語るに値する『ベルヴィル・トーキョー』(ヴァレリー・ドンゼッリのあの愛おしさ/狂おしさ。)、デプレシャンのテーマをアルトマンが撮ったかと見まがう傑作『スカイラブ』も、ともに素晴らしかったが、正直ハンセン=ラブの新作を前にしては1つの映画に過ぎない、と言いきってしまいたい。それほどまでに『グッバイ・ファーストラブ』はまさに1年に1本現れるかどうかの、圧倒的な傑作である。

 

映画は、少年シュリヴァンが自転車でパリの街を駆けるシーンからはじまる。自販機でコンドームらしきものを手に入れた彼は女に会いにいくのだと、僕たちは予感する。その予感は想像を超えた形で的中する。裸の女がベッドでその身体を毛布に隠して待っている。まだ胸の膨らみを男に見られることにすら慣れていない少女のようだ。誰にとっても魅力的な容姿を持つその女の名をカミーユと知る。カミーユとシュリヴァンのその場でのやり取りはしかし、二人の関係が既に終わりかけであることを示唆する。男が私の全てであるという女に対し、男は女のことを愛してはいるが自分を構成する一部でしかなく、重くなるなら別れると簡単に言ってのける。大切な祖父の形見すら、自分の旅のために簡単に売ってしまう、欲望に従順な男の南米の旅によって、誰もが予感したとおり、二人は離れ離れとなるだろう。最後に届いた手紙には、「浮気現場を見るかい?」という酷な言葉のあと「愛しているが別れよう」と書かれる。

数年が経過し、カミーユは建築家を志している。「スペース(=愛の喪失)を埋めるため」と言う。後に付き合うことになる建築家ロレンツとのやり取りにおいて、「記憶は闇だ」「記憶力が悪い。2度体験しなければ記憶できない」と語られる。そしてシュリヴァンとの再会。10年近くが経過し、すっかり大人になった二人の歩みの間、関係はしかし、かつてを懐かしむようなものではなく、どこか不穏さを携える。再びの自転車、川、麦わら帽子、いくつもの「反復の合図」は合ったにも関わらず、「1度だけの体験では記憶できない」カミーユはまたもや、別れの手紙を受け取ることになるだろう。愛の頂点においての、その愛の喪失を繰り返すことになる。

 

この傑作を前にした我々は、自らの持つ語彙や映画的知識を駆使して『グッバイ・ファーストラブ』について語ろうとするだろう。このシーンは○○を示唆する、アサイヤスの影響が、ブレッソンのこの映画を参照とした・・・。この映画を前にして口を閉じることは許されぬ、そのような切実さ、義務感すら覚える。しかし、我々が『グッバイ・ファ-ストラブ』についていかに語ろうが、決してこの映画には追いつくことができない。なぜなら、ハンセン=ラブは、いざ撮るときに、他の映画作家がやるように何かを意識的に撮るという行為をやっているようには見えないからだ。

彼女自身、「後になって、何処から影響が来たのか、何処からインスピレーションが来たのか、考えられるようになるという感じ」と語るように、彼女の映画のみずみずしさは、何かを意識して撮影を行うことで得たものではなく、ただ感覚的に「大切だ」と思った瞬間をキャメラに収めた結果、自然と生まれ出たもののように見える。難しいこと考えると疲れちゃうじゃない。そんなことすら言ってのけるハンセン=ラブの姿が目に浮かぶ。

そのことは、この映画の魅力が結実した瞬間が、カミーユ(ないしカミーユとシュリヴァン/ロレンツ)が川沿いで/岸辺で/パリの雑踏で「歩く」シーンであることからもわかる。言葉も何も必要ない。難しいことは考えない。彼女(たち)が歩く、それをフィルムに焼きつけることが何よりも大切だと思うから、ハンセン=ラブは撮るのだ。生み出されたフィルムの愛おしさは、観たもの誰もが知る通りだ。そしてその豊潤さを前に思うだろう。彼女たちの動き/感情、顔身体/水辺にあたる光そして影、あるいは背景の信号機の見せる黄と青、トラックの赤、果ては通行人ひとりひとりでさえも、何一つ欠けてはこの魔力的な美しさは存在しえない、と。

完璧なショットを撮るとは、シーンを構成する要素が何かひとつでも欠けることすら許されぬ、かつ決して過剰ではない状態を切り取ることだと思っている。完璧なショットによって、映画は、人を引き込んでやまない特別な力を備える。それこそが映画の奇跡というものだ。多くの映画作家は、その完璧なショットを自らの映画に焼きつけよう、と必死に計画し試行錯誤する。しかし、そこには偶然の要素が介在する。たまたま光が刺した、たまたま雨が降ってきた、たまたま電車が通った。そうした偶然が、映画の奇跡にはどうしたって必要だ。

しかし、ハンセン=ラブはその奇跡を自由に生み出すことができるようだ。彼女がキャメラを向ければ、奇跡の成立に必要な偶然が起こる。だから完璧なショットをいくつも生み出すことができる。まるで、ハンセン=ラブは映画の神に選ばれているようだ。そうとすら言ってしまいた欲求にかられるほど、彼女の映画は完璧なショットで満ち溢れている。かつてレオス・カラックスがそうであったように、たとえ彼ら以外が映画をいかに見ようと、映画における知識/経験をいかに積み重ねようと、ハンセン=ラブは超えられない。そう言い切ってしまうことすら憚られぬ『グッバイ・ファーストラブ』。同時代を生きる僕たちが、この映画を見ずして、映画について語ることは許されない。

5月10日まで渋谷イメージフォーラムにて公開中。大阪、京都、福岡、名古屋、仙台、横浜と公開予定。

http://mermaidfilms.co.jp/ffnw/theater.html

 

4月1日、映画、ホアキン

ようやく、ようやくネットが復活した。月々若干のお金をケチったばかりに、ネットが繋がらない日々を過ごしており、ブログの更新もできずにいた。前回更新がどうやら1月のようなので、約3か月ぶりとなる。あのときは雪もふっていたが、今では大岡川に満開に咲いた桜すら散ってしまった。ブログを更新しない、即ち、映画や音楽に触れる頻度は多くなるということ。というわけで、4月の日記でも書いてみよう。

最近は、とある事情により時間をもてあます日々を送っている。(そのあたりはまた5月入るころに詳細を書こうかと。)毎日忙しい現代人の方々からしたら羨ましくて仕方ない、もはや刺殺されかれない日々を謳歌している。やはり時間があれば、と映画を観るわけで、4月1日ファーストデイは平日とか関係なく『愛、アムール』(ミヒャエル・ハネケ)、『ザ・マスター』(ポール・トーマス・アンダーソン)を観る。

最近映画を観ようとするたびに不安に襲われる。「自分が不感症になってしまったらどうしようか」、という不安である。どんな映画もかつてのように愛せず、かつては大いに涙し、心を震わせただろう瞬間でさえも、平然と、ドントムーブ、私。みたいになったらどうしていこう、と。僕が生きた二十数年のうち、少なくとも15年の間は映画を信頼し、映画に身を捧げ、映画に寄って生きてきたようなところがあるので、自分が不感症になった瞬間、はて私は、となってしまうだろう。全く脆い。いくつか兆候はあって、今朝家で観た『遠雷』(根岸吉太郎)とかもう全然感動を覚えない。最後に歌うとこと石田えりの乳房くらい以外に、少しも心動くことなく138分は過ぎ去った。エンドロールが流れ、はっと気付く。私は、この2時間強、なにを観ていたのだ、と。苦痛とはこういうことだ。珈琲はすっかり冷めてしまった。

だから最近の映画鑑賞のスタイルとは、私にとって何よりも恐怖の、自分はまだ映画で感動できる、ということを確かめるために観るようなところがあるのだ。実際にこの4月は、いくつもの素晴らしい映画たちと出会うことができ、私はまだ生きている。ここにいる。かつてほど、涙を流すことはなくなった。私は渇いていく。

また何を言っているかわからなくなった。
ファーストデイの話に戻ろう。ミヒャエル・ハネケもポール・トーマス・アンダーソンも私の人生にとってはわりかし、どうでもいい人たちで、ハネケとか嫌いな監督3人挙げてと聞かれれば、いの一番に挙げたい監督であるし、次はトリアーで、アロノフスキーと並ぶだろう。さらにデヴィッド・クローネンバーグもすごく嫌いだ(今週公開の『コズモポリス』は楽しみだ。ビジュアルが『ゴシップガール』ぽくてすき)。ポール・トーマス・アンダーソンは全然嫌いじゃないけど、『ブギーナイツ』よかったよね、確かというくらいで思い入れはない。大体長い映画が多すぎる!映画のためにならない。映画を撮る方々は、人に観てもらうために、大切な時間の一部を頂戴していることにもっと意識的でなければならない。長い映画が許されるのはハリウッドであり、長い映画を撮りたいならハリウッドで撮れるくらいの人材になってもらいたい。

『愛、アムール』は、ハネケという存在は、やはり僕の人生にとって無縁であり続けることを決定的にした作品であり、特に何ら心動かされなかった。おばあちゃんがロボットみたいに突然動きが止まるので、笑ってしまったくらいだ。パルムドールとか取る、こういう作品で心が動かされないと、ああ、私はやはり不感症になってしまったのかと、びくびくする。

だから次に観た『ザ・マスター』が本当に素晴らしくて、私は生を実感する。冒頭の海、青、そしてホアキン・フェニックスの顔がドンと据えられたショットでぶわっと、涙で頬がべちょべちょになる。「おかえり、おかえりホアキン」、私は心の中でつぶやく。同じ現象は数日後『ホーリー・モーターズ』を観たときにも起こったことは言うまでも無い。「おかえり、おかえりカラックス」。

『ウォーク・ザ・ライン/君に続く道』『アンダーカヴァー』『トゥー・ラバーズ』僕の大切な映画にはいつも彼がいた。言いすぎだ。しかし、あのホアキンのバチっと固められた髪型、額、そして今にも人を殺しかねん目つき、あるいは不気味さ、がスクリーンに映る、にじむだけで私は幸せで昇天しそうになる。そのホアキン演ずるフレディの居場所として全く相応しくないデパートのシーンのあまりの素晴らしさはどうだろうか。「4999ドル」と当時の人々にとっては圧倒的に破格だろう毛皮のコートを売り歩く女性を追うキャメラの滑らかな動き。ジャケットとタイでぴしっと決めたホアキンがキャメラを携える佇まい。客にふっかける喧嘩。映画は冒頭から一瞬も揺るがずに、疾走する。

ここまで書いてみて、お腹がすいてきた。近くの『YOHO』というお店がとても美味しいとOZマガジンに書かれていたので、ワインでも飲みにいこう。そう決めた僕はこの日の日記のタイトルを「4月、映画」から、「4月1日、映画、ホアキン」に修正・変更することで、何かを成し遂げた気になる。僕の人生はこうせこたらしい調整、調整を重ねることで何かを言い訳し、取り繕うことを繰り返している。だからといって、特に気にしていない。僕の人生にとってそれは大して大事なことではないのだ。簡単に取り繕えることならば取り繕えばいい。僕にはもっと大事なことがあるのだ。オーディオからはEVISBEATS feat 田我流の『ゆれる』が流れてきた。身体が酒を欲している。

『ザ・マスター』最高です。


『次の朝は他人』(ホン・サンス)と『Playback』(三宅唱)の共感。

1月14日(月)、その日東京は稀に見る大雪だった。
そんな日に、『次の朝は他人』が見せる美しい雪のシーンに、「偶然」出くわした観客は、その自身の映画体験をなんらかの理由づけをしてみたくなる欲求にかられるだろう。
(当然、劇場を後にした誰しもが目の前の悲惨さに、やはり映画中における雪は幻想でしかなかったのか、と思わざるをえないわけだが。)

映画における雪と言えば、夜の台北から、雪の夕張へと浮遊して見せる『ミレニアム・マンボ』(侯孝賢)が最も印象的に残っているわけだが、『次の朝は他人』の主人公・映画監督が雪中に見せる表情は、あるいは突然のキスシーンは、決してそれに劣らぬ素晴らしいシーンを持つ、冬の映画である。
朝になることをサインに、主人公だけが、おぼろげに記憶を残しているかのような素振りを見せつつも、他の誰もが記憶を失くし、ほとんど唐突なまでに映画は反復する。
朝になる度に、繰り返す、しかし少しずつ違う、僕たちはその「違い」(あるいは「同じ」)を発見する優雅な遊戯に没頭するだろう。
主人公自らが言うように、「人は無数の『偶然』を勝手に紐づけ、『理由づけ』したがる」ものなのだから、僕たちはその宣言通りに、「反復と違い、そして同じの間」を楽しめばいい。これも1つの映画的楽しみなのだ。

その甘美な楽しみに身をひたらせていると、そう言えば最近も同じような遊びをした気がするな、と思い出す。
そう、三宅唱の『Playback』である。(書いていて思い出したが、彼が生まれ故郷の北海道で撮り上げた前作『やくたたず』も素晴らしい雪の映画であった。)『Playback』もその名の通り、あるサインで主人公だけが記憶を残したまま映画は繰り返す。2度目には、その違いを楽しむことに没頭したものだ。
さらに、共通点はそれだけに留まらない。モノクロの美しく、そして実験的な映像。かつては映画で名を馳せたが、現在は落ち目、という主人公の境遇までも類似している。

全くこのような映画たちが、ほぼ同時期に公開されたことは、なんたる「偶然」か、と喜びを隠せない。
この偶然を「韓国と日本で映画同士が呼応しあっているのではないか」なんて理由づけして遊んだとしても、誰にも責められはしないだろう。

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『Playback』(三宅唱)

『ファースト・ポジション 夢に向かって踊れ!』とステイシー・ペラルタのアクチュアリティゆえの輝き

バレエに関する映画や小説が好きだ。バレエのドキュメンタリー映画なんて公開されればそれが全然名前を聞いたことのない監督であれ、つい映画館に駆けつけてしまう。『ファースト・ポジション 夢に向かって踊れ』(ベス・カーグマン)もBUNKAMURAで観て、とてつもなく感動した。若者たちのがんばってる姿とか、その先の挫折と栄光ってだけでもう超泣いてしまうのだけど、それがバレエだとなおさらだ。ちなみに一番好きな漫画は『舞姫 テレプシコーラ』(山岸涼子)だったりもする。

たぶん作り手のアクチュアリティの問題なのだと思う。いかに自分の話を語っているか、というのは作品の魅力にダイレクトに跳ね返ってくるのでないか、と考えている。そう、バレエの映画を撮る人やそれについて書く人は、ワイズマンこそ違うかもしれないが、みんな過去にバレエやっているのだ。
ハリウッドのスパイ映画とかSF映画、超おもしろいし超大好きだけど、昔ソ連のスパイだったり前職CIAだったって人や実際にエイリアン昔襲われたことがあってあのときマジ怖かったんだよね、ということを伝えたくて映画撮りましたって監督は多分ほとんどいないはずで、そこにアクチュアリティというものは皆無。(アクチュアリティがないはずなのに書けるということがまじで凄いんだ!と最近飲んだ素晴らしい私小説を書く友人は言っていたし、その通りだと思っている。)
その点バレエ映画はアクチュアリティのかたまりのようなものだ。それがドキュメンタリーであれば勿論のこと、フィクションであっても作り手が語っている物語を何よりも理解して、伝えてくるわけだ。今作のベス・カーグマンも、山岸涼子も勿論バレエ経験者でその辛さも苦悩も、舞台で成功したときの喜びも知っている。ガヤのライバル心(この映画で最も素晴らしいシーンはガヤのダンス中の表情だろう)も、ミケーラの怪我、そして自分を信じられなくなる辛さも、あるいはジョアンの栄光さえも。そんな映画が素晴らしくないわけがないだろう。

同じ理由でサーフィン映画やスケボー映画も好きなのだろう。サーファー以外の撮ったサーフィン映画なんて見たことあるだろうか?
その中でもキングオブアクチュアリティはステイシー・ペラルタ(『ボーンズ・ブリゲード』『ライディング・ジャイアンツ』『ロード・オブ・ドッグタウン』)だと確信している。『ボーンズ・ブリゲード』の映画中、「ボーンズ・ブリゲード」の解散についてステイシー・ペラルタが泣きながら語る昔話が最高だ。「俺がボーンズ・ブリゲードを作った理由は、Z-BOYSで叶わなかった、一生続く最高のチームを作ること、ということをどうしてもやりたかったんだ。でもやっぱり無理だった。」と。それを30年後に当時のメンバーみんな集めて映画作って語ってしまうのだから、やはりステイシー・ペラルタほど愛すべき監督はいないんじゃないか、と思うのだ。


『理想の出産』(レミ・ブザンソン、フランス)

先の「2012best」でも挙げたように、僕にとって、2012年は『わたしたちの宣戦布告』の年だった。
ボーイミーツガールからの結婚・出産、そして子供が難病だと知り立ち向かう同作は、その与えられる過酷な状況下にも関わらず、ロメオとジュリエット2人の夫婦の絆ゆえ、最後の砂浜・海にたどり着き、ハッピーエンドという形で物語は終結する。

だが、僕たち誰しもが経験があるように、男と女の物語の常は、ああうまくはいかないものである。
通常、あのような状況下では、協力が足りないと女性は男性に強く当たり、男性は女性のやつあたりに我慢を重ねる。やがて我慢も限界に達した男性は、たまった怒りを女性に放出する。一度は愛し合ったが、所詮は他人同士だったが故、夫婦と言う絆は、脆く崩れやすい。お互いを大切にし、支えあうことを忘れれば、それはまた別の形での物語の終結となるだろう。

前作がフランスでスマッシュヒットを飛ばし、アルノー・デプレシャンと並んでセザール賞ノミネートされた新鋭レミ・ブザンソン監督の『理想の出産』は、ボーイミーツガール、結婚、出産という流れまでは『わたしたちの宣戦布告』と同様の展開であるが、子供が難病でなかったところから話は変わり始める。支えあわねばならぬ必然性がないが故に、妻は出産が故にうまく立ち回らなくなった自分の私生活(友人関係や助教授としてのキャリアステップ)の矛先を、子供を通して夫に向けるだろう。世の男が皆そうであると同様に、夫も妻の気持ちを汲みとりきれず、最初は優しい・理解のある男性を演じているものの、いつしか限界が訪れる。これ以上は踏みとどまらなければまずい、そんなサインは何度もあったにも関わらず、落ち着いて考えれば誰よりも大切で愛している相手に対して、「君と一緒にいるのはもう無理だ」と激昂に身を任せ口に出してしまうだろう。

『ブルーバレンタイン』、『(500)日のサマー』、『ルビー・スパークス』がそうであるように、男と女の常はそういうものであり、一度そうなればハッピーエンドは幻想である。ラストシーン、2人は初めてデートしたカフェで、再会するだろう。その先の未来が明るいかは、誰もわからない。一度の人生失敗しないためにも、映画でしっかりと予習をし、いざそんなときが来れば、ロメオとジュリエットのように、僕たちは立ち振る舞いたいものである。

■関連記事
2012best
『わたしたちの宣戦布告』

2012best

こんにちは2013!さようなら2012!
締めくくりは今年公開の映画と今年聞いた音楽ベスト。

■映画
『わたしたちの宣戦布告』(ヴァレリー・ドンゼッリ、フランス)-フランス映画の復活に。
『Playback』(三宅唱、日本)-映画の未来を支える2人の男に。
『桐島、部活やめるってよ』(吉田大八、日本)-映画館と屋上のシーンに。
『アルゴ』(ベン・アフレック、アメリカ)-ベン・アフレックの見せるリーダーシップに。
『ドラゴン・タトゥーの女』(デヴィッド・フィンチャー、アメリカ)-愛すべきリスベットに。
『戦火の馬』(スティーヴン・スピルバーグ、アメリカ)-馬、馬、馬!そして空撮!
『ミッドナイト・イン・パリ』(ウディ・アレン、アメリカ)-これぞ、まさにウディと言わずにいられなさに。
『J・エドガー』(クリント・イーストウッド、アメリカ)-3人の俳優に。
『ダークナイト・ライジング』(クリストファー・ノーラン、アメリカ)-地への誇りと、愛情に。
『デンジャラス・ラン』(ダニエル・エスピノーサ、アメリカ)-次作が楽しみな監督の誕生に。

アメリカ映画さえあれば何もいらないと長らく思っているが、
2006年の『キングス&クイーン』(アルノー・デプレシャン)以来、久々にフランス映画返り咲き。ただ、ただ、感動した。そこには映画があった。
『Playback』はそのタイトルを記事で見るたびに追い、毎度感動を覚えた。三宅唱とムラジュン、この2人がいるから、映画の未来はまだ大丈夫だと思った。

また、新作ではないので上記からは省くが、
『合衆国最後の日』『カリフォルニア・ドールズ』(以上、ロバート・アルドリッチ)『シルビアのいる街で』(ホセ・ルイス・ゲリン)『白夜』(ロベール・ブレッソン)という人生のベスト級の作品たちを劇場で見ることができたことが、なによりも嬉しい一年だった。

■関連記事
『わたしたちの宣戦布告』
『Playback』
『桐島、部活やめるってよ』
『アルゴ』
『ダークナイト・ライジング』

■音楽
THA BLUE HERB『TOTAL』-一番聞いた。毎日勇気をもらった。
DJ BAKU『POPGROUP presents, KAIKOO “Human Being”』
 -音楽の潮流はKAIKOOから始まるのではと信じて疑わなかった。DJ BAKUを大いに尊敬した一年だった。
Dr. Oop『Black Love Oriented』-夜、考えことをしながら一人聞いていた。お洒落さに身を任せたくなった。
YAKENOHARA『Step on the heartbeat』-ハートをビートした。
The Streets『Original Pirate Material』-ストリーツってこんなかっこよかったのかとおののいた。
Atmosphere『God Loves Ugly』-相変わらずすげーかっこよかった。
LUVRAW & BTB『ヨコハマ・シティ・ブリーズ』-夏に楽しい気分になりたいときによくかけた。
七尾旅人『リトル・メロディ』-悩んで前に進めなくなったとき「サーカスナイト」聞いて、より前に進めなくなった。
柴田聡子『しばたさとこ島』-忘れ得ぬ思い出となった金沢の夜だった。
Jack Johnson『To The Sea』スケボー、サーフィン、ジャック・ジョンソンとばかり口走る夏だった。

ヒップホップとスケボーさえあれば何もいらないと思った一年。

さて冬休み。

本日は仕事納めでした。1年間お疲れさまでした!

 

ほんとに悩み抜いた4月~10月。11月、12月、自分と向き合い、人生のことを真剣に考え抜いて、少なからず僕の人生にとって大きな決断をいくつかして、だからこそ最後の1か月は充実して終えられた。自分とここまで向き合えた、その意味で辛かったけど、とても重要な1年になったな、と思う。

 

人生のことばかり考えているとはいえ、映画を観ていなかったわけでは勿論なく(やっぱり僕にとって映画がなによりも大切だと気づいたこともあるし)。あなたの好きな映画を10こあげて、と問われてもランクインするであろう映画に数本も出会えていた。いつか何か書こうと思ってとってはおいたが、多分もう書かなそうなので、ここで羅列する。というわけで最近見た映画たちです。見た順に。

 

『5windows』(瀬田なつき)
『白夜』(ロベール・ブレッソン)
『さすらいの女神たち』(マチュー・アマルリック)
『キック・アス』(マシュー・ヴォーン)
『カリフォルニア・ドールズ』(ロバート・アルドリッチ)
『ザ・ウォード/監禁病棟』(ジョン・カーペンター)
『ステップアップ4レボリューション』(スコット・スピアー)
『遠距離恋愛 彼女の決断』(ナネット・バースタイン)
『トータル・リコール』(レン・ワイズマン)
『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(マルコ・ベロッキオ)
『合衆国最後の日』(ロバート・アルドリッチ)
『ボーンズ・ブリゲード』(ステイシー・ペラルタ)
『刑事ベラミー』(クロード・シャブロル)
『トスカーナの贋作』(アッバス・キアロスタミ)
『ルビー・スパークス』(ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス)
『恋のロンドン狂騒曲』(ウディ・アレン)

 

そろそろ年間ベスト10の季節だが、旧作も入れてもよいというならば、『合衆国最後の日』が一番よかった。ここに僕の憧れる男像がすべてあった。丁度政治とか選挙とかあったしね。アルドリッチが続けて見れたことに感謝。ほぼ並んで、『シルビアのいる街で』『カリフォルニア・ドールズ』『白夜』。そして新作が来るという一年だった。


さて冬休み。この時間を有意義に使おう。

ヴェンダースの死と再起『パレルモ・シューティング』

ヴィム・ヴェンダース。そのシネアストは僕にとってずっと特別な存在だった。

僕たちのような、映画の魅力に囚われてしまった人種というのは、みな、どこかで自分の「人生を変える映画」と出会っている。お互いが映画好きだわかると、自己紹介がてら、あるいは話題が尽きかけたとき、その映画は何だったという話になる。たとえばウディ・アレンの『アニー・ホール』、スピルバーグの『ジュラシック・パーク』、あるいはトリュフォーの『大人は判ってくれない』が、皆のそれであるように、僕の「人生を変える映画」は、ヴェンダースの『パリ、テキサス』だった。息子、ハンター君が、T字路で「右だよ」と言ったときから、僕はすっかり映画の魔力にやられてしまった。

『パリ・テキサス』は、ビデオでも、数少ない劇場上映でも、中学生でほとんどお小遣いなんてない時分、それでも観られる機会があれば駆けつけたし、ヴェンダースの他の映画も貪るように観た。『ベルリン天使の詩』『アメリカの友人』『都会のアリス』、決して孤独ではない彼のロード・ムーヴィーに夢中になった。ヴェンダースの『東京画』を観て、小津のことを初めて知ったくらいなので、彼は僕の映画の先生でもあったのだろう。

しかしヴェンダースの長い旅にも終りが来る。5カ国でロケが行われ、近未来ロードムーヴィーと歌った『夢の涯てまでも』以降、テクノロジーに埋没する。それまでヴィデオでしか見れなかった彼の映画を、ようやく同時代的に、劇場で観ることができた『ミリオンダラー・ホテル』はしかし、僕が一方的に憧れつづけたヴェンダースではなかった。その後、『ランド・オブ・プレンティ』という短時間で撮り上げた小作は悪くなかったが、『アメリカ、家族のいる風景』で、僕は、かつて最も愛した彼を追うことを止めた。

 

新作公開も、劇場に向かうこともしなくなった僕だが、約7年ぶりに彼の映画を観ることになった。観ている途中からほとんど涙が止まらなかった。僕は、『パリ・テキサス』以降のヴェンダース作品において、これほど心を揺さぶられたことはなかった。

この映画において、ヴェンダースは、自身を、主人公の写真家フィン(カンピーノ)に投影する。ヴェンダースがそうであったように、この主人公フィンは、テクノロジーに囚われ、次第に凋落していく自分に気づいている。

ヴェンダース×フィンに留めを差すのは、かつてのヴェンダースと共に素晴らしいロード・ムーヴィーを作り上げたデニス・ホッパーだ。死神として登場した彼の弓に撃たれキャメラ×カメラは、二度と撮れない状態になる。さらに、ヴェンダースは、デニス・ホッパーに「デジタルは実在しないことと同じだ」と言わせてみせる。フィルムで撮り上げながら、デジタル加工を躊躇なく施したこの映画においてだ。

そう、『パレルモ・シューティング』はヴェンダースの遺書である。彼は、自身の遺書を、紙ではなく、愛したフィルムに彫った。ヴェンダースはこの映画で一度死ぬことを選んだのだ。

しかし、そのラストシーンはどうしたって明るい。フィンの表情を観るかぎり、俺はまた、生まれ変わる、という決意のようにも見えるのである。