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『ラブ・アゲイン』。人生なんて恋と愛と、(そのいづれも伴わない)幾ばくかのセックスだ。

いまさら言うまでもない、な話ではあるが、最後に、もう1度だけ言っておこう。

人類が生まれて数千年、全く変わらない、そう、「人生なんて恋と愛と、(そのいづれも伴わない)幾ばくかのセックスだ」。ザッツオール。それがすべて。そこには文学も、ロックンロールも、当然映画なんてものも必要ない。それが本当に全てなのだ。(こう言うと凄い反感を受けるかもしれない。だが言っておこう。いまピクっと神経を動かし、それは違うだろ、と思った人、すべからく敗者である。負け犬である。そう、僕も含めて。)

兎に角、『CLAZY STUPID LOVE』というイケイケな原題を持つ『ラブ・アゲイン』という映画がサイッコー(ダブルEでカッコE!という言葉を思い出すね)なのは、この映画において、ザ・スミスも、フィッツジェラルドも、ジャック・ケルアックも、タランティーノも、あるいはイーストウッドも登場しないからだ。そうバラ色の人生において、固有名詞なんて不必要。「人生なんて恋と愛と、(そのいづれも伴わない)幾ばくかのセックス」、この信念のもと突き抜けまくったものこそ勝者なのである。

恋と愛、そしてS・E・X(それで隠語にしているつもり!という奥さんのツッコミがこれまた最高)。120分の間、それだけを描き、他に一切ぶれない、ある意味徹底的にラブストーリー。突き抜けているからこそ、ああ、一体「電話」を使ったシーンでここまで美しかったシーンがこの映画史100年において見たことあるだろうか、と叫ばざるにいられない元妻と元夫の一枚の窓越しの会話に僕らは感極まってしまうわけだし、2つの恋と2つの愛が見事に絡まりあうシチュエーションが実現する、庭でのはちゃめちゃ家族パーティが成立してしまうのだ。(キング・オブ・コメディとはこういうものだったのか!映画史なんて知らなくても脚本さえ面白ければいいじゃん!とムカつく笑みを見せる監督の顔が思い浮かぶようだ。ファック!)

悔しいーけど極上エンターテイメント、すなわち映画。あああもう今すぐもう一回見たい!その理由のひとつとして、アメリカ産市川美和子、アナリー・ティンプトンに一目ぼれしてしまったこと、というのは今さら隠す必要もないだろう。


「アルゴ!アルゴ!アルゴ!」ベン・アフレックの最新作は思わずそう叫びたくなる魅力に溢れている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

試写会にて、一足先にベン・アフレック新作『アルゴ』を見た。

既にベン・アフレックの恐るべきデビュー作『ゴーン・ベイビー・ゴーン』や長編第二作『ザ・タウン』を見てしまった僕たちであれば、ベン・アフレックがいまや現代アメリカ映画を代表する映画監督だと十分にわかっているだろうし、彼の新作がいわゆる傑作だったとはいえ、「さすがベン。俺の認めた男だぜ。彼ならこれぐらい撮ってくれると思ってた。」などと言って、終わりに出来たかもしれない。

しかし、彼の新作『アルゴ』は、ベン・アフレックが僕らの想像の範疇を既に超え、「ベン、君こそ世界最強の映画監督だよ。イーストウッドを超えてしまったよ」と言ってしまいたくなるほどの誘惑にかられる、信じられないほどの大傑作だ。いま、誰かが僕に「今年最高に良かった映画を3つあげて」なんて質問をぶつけてこようものなら、大興奮のうちに、「アルゴ!アルゴ!アルゴ!」と答えてしまうだろう。

『アルゴ』が他のアメリカ映画と比べ抜きんでているのは、この映画が『國民の創世』以来、何万本も撮られただろう「ラスト・ミニッツ・レスキュー」の最高峰でありながら、同時に単なる「最後の瞬間の救出」映画に終わらない点だ。

この映画は、「ヒロインが殺されそう」になったときに突如クモにかまれた故にスーパーパワーを得たヒーローが現れ彼女を守ったりもしないし、「銃を突きつけられ、もう絶望だ、助かる道はない」と思ったときに、資金を持つが故テクノロジーの最先端を駆使し愛する街を守ろうとするヒーローが登場して皆を救うこともない。あるいは、暴走列車を止めるために、長年の知識と技術を持った男が、まさに英雄と呼ぶにふさわしい勇敢さを見せるわけでもない。
これまでの「ラスト・ミニッツ・レスキュー」を演出した者たちを「ヒーロー」と呼ぶのであれば、ベン・アフレック演ずるこの物語の無口な主人公は、決してヒーローとは呼ぶべきではないだろう。スーパーパワーを持つわけでもないし、テクノロジーを駆使するわけでもない、何か飛び抜けたものを持っているかと聞かれても答えに窮するだろう。

もっと言うなれば、ベン・アフレックは映画の中で何をするわけでもない。映画を観る前から誰もがその結末を予感している通り、当然、最後にイランから無事脱出に成功するわけだが、しかし、ベン・アフレックは直接的にそれに貢献は何もしていない。正確には「ニセSF映画の撮影をしてるふりをしよう」と思いつき、提案したのは彼だが、それ以外の目立った功績はない。活躍するのは、6人のメンバーひとりひとりだし、むしろ、最初は「ニセ映画の撮影なんて俺は絶対ノラないぞ」と言っていた眼鏡の男が、最後には交渉術で敵を丸めこみ、一番活躍を見せるくらいだ。(イラン語のわからないベン・アフレックはそのときただ黙っているのみだ)

活躍をしないわけだから、当然、彼は目立たない。ニセ映画のスタッフとしても「制作補」?という微妙な位置づけだ。結果、対外的には6人の外交官を救出した功績はカナダにすべて持っていかれ、CIAにおける最高の名誉であるスター勲章を与えられたベン・アフレックは、しかし自分の子供にもそのことを告げることは許されない。それどころか、一度与えられた勲章すら、すぐに取り上げられることにもなってしまうだろう。決して彼は、目立つヒーローになることは許されない。

しかし、だからこそ、この映画は単なる「ラスト・ミニッツ・レスキュー」に収まらない。すなわち、ヒーローがその圧倒的な力で敵をなぎ倒す物語「ではなく」、ある人物に出会った者たちが、こいつを信じて、こいつのために頑張ろうと思い、皆で難関を解決する、そんな「リーダーシップ」の物語なのである。彼のために、みな架空の設定を一生懸命覚え、練習する。ニセ映画なんて絶対に参加しない、と言っていた男が、変化する。彼のために、国務長官、CIA長官、果ては大統領でさえ動くであろう。

我々は、この映画におけるベン・アフレックの姿を見て、もはや当の昔に忘れていた「リーダーシップ」という言葉を一体いつぶりか思い出す。アメリカも日本も、政治や企業、どこを見回してもリーダーシップなんてなくなってしまった、そんな時代を救おうとする、「ラスト・ミニッツ・レスキュー」なのである。

『アルゴ』(ベン・アフレック)は2012年10月26日より全国ロードショー。


■関連記事
『ゴーン・ベイビー・ゴーン』(ベン・アフレック)

ジェイソン・ライトマンの残酷さと、明るさ(『ヤング≒アダルト』『JUNO』『サンキュー・スモーキング』)

たとえば、主人公が、別れを経てから20年近くも経つだろう元彼の思い出に寄り添うための支え、すなわち「バンドをやっていた彼が当時、彼女を思って作った、そして彼女に聴かせた思い出の曲」を、彼女の前で、いまの彼の妻に演奏させてみせるライブシーンの残酷さ。そして、「彼は私と戻りたくて仕方ないんだ」と勘違いを続けて暴走する主人公の、パーティーシーンにおける仕打ち。キスまでしたはずの彼が、彼女に放つ言葉。

『ヤング≒アダルト』を見て感じた、ジェイソン・ライトマンの残酷さと、どうしたって感じてしまう魅力は一体、何なのだろうか。それを探りたくて、『JUNO』『サンキュー・スモーキング』と続けて見返すことになった。(1人の映画監督の過去作品を続けざまに見る、こんなこといつ以来だろうか!)

 

こちらも大傑作と噂の『マイレージ・マイライフ』をまだ見ていないので、そう結論付けることは誤っているかもしれないが、彼の残酷さはどうやら徐々に増しているようだ。

男が単に巨乳でめちゃかわいい(これがケイティ・ホームズか・・・はじめて出演作を見たけど好きすぎる顔。)悪女に騙されて人生崩壊するだけの話である、長編デビュー作『サンキュー・スモーキング』はまだ、ジェイソン・ライトマンの悪意は感じない。たとえ騙されても、彼はひとりで立ち直るし、ケイティ・ホームズを結局、打ち負かしてみせたりもする。あくまでアメリカ映画伝統の「盛り上がって・落ちて・盛り上がる」の「落ち」にあたるティピカルストーリーの枠に収まっている映画に過ぎない。

しかし『JUNO』はなかなかに甘くない。若くして妊娠した主人公のジュノ(エレン・ペイジ!)は、音楽や映画の趣味の合う将来の養父の家に通うだろう。ジュノからすれば、仲の良い理想的な夫婦だった。この夫婦に子供をもらってもらえることがとても安心だった。ジュノの決して高望みではない、ほとんど唯一の希望はしかし突然に壊される、養父の見るに堪えない心移りによって。将来の養父の「だから通ってきているんじゃないのか」の言葉を吐くときのジェイソン・ライトマンの描く狂気は、悪寒すら覚えるだろう。また、将来の子供の母親であるヴァネッサが、JUNOのお腹を触るシーンなんて、『ヤング≒アダルト』から遡って見た僕なんかは、「ああ、母親が触っても一切子供は反応しない(というより、彼がさせない)のではないか」とおびえることにもなるだろう。

 

こんなにも悪意がにじむジェイソン・ライトマンの映画は、しかし、明るい。

決して、ダーレン・アロノフスキーやラース・フォン・トリアーのように、(たとえば『ブラック・スワン』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のラスト、)主人公は狂気にひきずられて、戻ってこられなくなるわけではない。彼の映画では、これでもかと不幸な境遇に毎度陥れられる主人公は、しかし絶対に立ち直る。

彼の映画にはほとんど必ず、失意に満ちた主人公がひとり、車に乗り込み、長く続く道を進む、ロングショットがある。まるで、失意のどん底にいる彼ら・彼女らが残酷さと言う試練に飲みこまれないための、儀式のようだ。全体の時間からすれば短いが、しかしとても印象的なそのロングショットは、主人公が「それでも私は生きていくんだ」、という決意をしているかのようだ。

彼の映画は明るい。だからこそ僕は、ジェイソン・ライトマンの映画に魅力を感じてやまないのだろう。

『永遠の僕たち』『ヤング≒アダルト』『ローラーガールズ・ダイアリー』『おとなのけんか』..酔いどれ映画日記

タイトルは見た順に並べた。僕に感じたものを文章にする無限の才能と十分な時間があれば、掲題の4つの映画について個別に記事をこしらえるのだろうが、
残念だからどちらもない(特に才能の無さには驚くほどだ!)ので、まるっとぬるっと1つの記事を更新する。
金曜夜、仕事からの帰宅が深夜1時。相方がつくってくれた混ぜご飯と白ワインを飲みながらブログを更新するまさに花金。

というわけで、酔っ払っている中で4つの映画について。好きな順で言うと、
1位『ローラーガールズ・ダイアリー』(ドリュー・バリモア)
2位『ヤング≒アダルト』(ジョナサン・ライトマン)
3位『おとなのけんか』(ロマン・ポランスキー)
4位『永遠の僕たち』(ガス・ヴァン・サント)

1位、2位は甲乙つけがたし。この2作品を映画館で見ていなかった自分を呪いたいくらい。僅差で3位。
結構離れて4位。世間的評判はいいが残念ながら僕はのれなかった。
酔っ払いながら縦横無尽に語り尽くします!

 

■『ローラーガールズ・ダイアリー』(ドリュー・バリモア)

「彼女が出ればその映画は間違いなく面白い。」

そんな言葉が映画好きの間で納得感を持って語られるほど、元祖あげまんのドリューだが、出ても最強、撮っても最強ということを本作で証明した。

そんなドリューと、次のドリュー・バリモアを狙え!エレン・ペイジ(言わずもがな超絶傑作『JUNO』の主演!ああもっと映画出て!)が組めば、どう転んだって普通の映画に終わるわけがない。

ただでさえこんな青春ムービーに弱い僕だが、その中でも格別。
たとえば、各チームが集まって、お菓子や食べ物をぶつけ合うシーンの充実度は一体なんなのか。
それがスクリーンの先で行われているにもかかわらず、ああどうして自分がその場にいないのか、と感情を湧きあがらせる。
僕も、私も、「ローラーゲームやりたい!」と見終わった瞬間誰もが思ってしまうだろう、青春ムービーのお手本のような傑作。

支えるはドリュー・バリモアの映画作家としての才能。ローラーゲームのシーンの演出に酔いしれろ。
凡庸な映画監督には撮りえない、あれだけの登場人物がいながら、ひとりひとりがどう動き、どんなアクションが行われているのか、すべてを映像でわからせる演出力にただただ感嘆するばかりだ!ホイップ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■『ヤング≒アダルト』(ジョナサン・ライトマン)

エレン・ペイジといえば大傑作『JUNO』、ジュノといえば、ジョナサン・ライトマン。
先日の『Playback』あと飲みで、『ヤング≒アダルト』が今年ベストという声もちらほらあがる作品だが、これも未見。DVDにて。
冒頭からああこれこそ映画だよねというような粋な演出で、ああ、この感動『ロストイン・トランスレーション』以来!とついぞ叫んでしまいたくなる衝動にかられる。

とかく音の使い方が素晴らしい。
序盤、ほとんどサイレント映画と勘違いするような、音の使わなさ!男の名前が書かれたカセットテープが再生されるまでの15分間、音の記憶が一切ないくらいだ。
当然、物語の中盤のライブシーン(ああ、こんなつまらなそうなライブは初めてだ!最高に監督の悪意に満ちている。後のパーティーも反吐が出る!)
このシーンのために、音を異常なまでに使用したがらない演出だったのね!とまたジョナサン・ライトマンに惚れてしまうわけです僕たちは。最高!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■『おとなのけんか』(ロマン・ポランスキー)

もと演劇、ということで、そうだよねーというのがありありと伝わってくる。非常にシニカルな笑いに満ちた傑作だと思います。
この狭い空間だけで、ようやりました、とつい言ってあげたくなるようなそんな感じ。
ポランスキーの映画なんてほとんど好きじゃなかったけど、前作の『ゴーストライター』と本作、2本続けて魅せつけてくれる。
しかも全く違うやり方で。

見終わった後は是非この素晴らしい評を。なるほどね、とつぶやかざるをえん文章だ。
http://www.nobodymag.com/journal/archives/2012/0316_2330.php

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■『永遠の僕たち』(ガス・ヴァン・サント)
つまらなかった。
思い返せばガス・ヴァン・サントって『エレファント』以外一本も好きな映画なんてないことに気がついた。(『ミルク』は未見)
しかし、好きな映画監督のひとりだ、なんて思わせる力があるのが凄い。こわい。
唯一、よかったのは、主演のミア・ワシコウスカが僕の昔好きだった後輩に似ていることくらいだった。かわいかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■あわせて最近読んだ本。
阿部和重の『クエーサーと13番目の柱』『無情の世界』どちらもとても面白く読んだ。1時間くらいで読み終わった気がする。
そして佐々木敦がかつて出した映画批評集に、感涙にむせびなく日々だ。蓮實と同等、もしくはそれ以上に心を熱くさせる映画批評集がこの世にあったなんて。佐々木敦見直した。それについては酔っ払ってないときにちゃんと書く。

最近見た映画(『ロック・オブ・エイジズ』『デンジャラス・ラン』…)、読んだ本(『恥辱』『タイタンの妖女』)

■最近見た映画
・『ロック・オブ・エイジズ』(アダム・シャンクマン)
トム・クルーズがロックスターとか間違いなく面白いと思ってたけど、想像通り最高のハピエストムービーだった。
なにより主演のジュリアン・ハフがとにかく凄い。(映画中ずっと、『魔法にかけられて』のエイミー・アダムスかと思ってたのだけど全然違うようで、同じような話の『バーレスク』にも出てた子のよう。)たとえばはじめてのデート、山の上かどこで、彼に見せるくしゅっとした笑顔だとか、彼に別れ雨の中を歩くときの落ちた表情とか、まあほんとこんな表情できる子がいるのか、と驚くばかりで、アダム・シャンクマンの演出力の無さやカッティングの下手さはもう呆れるくらいだけど、それでも彼女のあの表情を捉えられたのだから、100点挙げたい。
そして監督がいかに下手であろうと、この映画の面白さに傷がつくわけではない。歩くだけで女の子を失神させて見せる、トム・クルーズのロックスターぶりは訳わからないけど、最高にかっこよく面白い、ディエゴ・ボニータの色々あるよね人生は物語も秀逸だ。ラスト、『ラブソングができるまで』を彷彿とさせる、幸福感に満ちたライブシーンで涙を流すことを抑えられはしない。

・『デンジャラス・ラン』(ダニエル・エスピノーサ)
映画が始まればすぐに、ダニエル・エスピノーサというほとんど無名の監督が、そこいらの映画監督とは格が違う、優れた映画作家であることに気づくだろう。
圧巻は、セーフハウスに敵が忍び込んできてわーっとやりあうシーンで、この映画作家は、デンゼル・ワシントンを「全く動かさない」なんてことを平気でやってのけてしまう。『デジャヴ』や『アンストッパブル』などを見て、どうしたって最前線で動いちゃう・活躍しちゃう、彼を知ってしまえば、決して短くないアクションシーンにおいて、彼を椅子に座らせたまま、「全く動かさない」なんて選択肢、凡庸な映画監督には思いつきすらしないだろう。
どう考えたってトニスコ好きだろうこの映画作家は、気づけば、敵同士であったはずのデンゼル・ワシントンとライアン・レイノルズを、まるで『アンストッパブル』のデンゼルとクリス・バインのように心を通わさせてみたりもする。
ダニエル・エスピノーサという名前を覚えておこう。アメリカ映画に、またひとり次の作品が楽しみな映画監督があらわれた。

・『ドラゴン・タトゥーの女』(デヴィッド・フィンチャー)
DVDにて再見。やはり最高でした。

■最近読んだ本
・『恥辱』(J.M.クッツェー)
クッツェー初読。若い作家で彼より面白い話をかけるはいくらでもいるだろう。しかし彼より美しい文章を書ける人は、この世にほとんど存在しないのではないか。そして、その文章を日本語へと変換させるという意味において、翻訳家という存在をこれまで読んだ本の中で最も意識した。海外小説において、翻訳家は、もうひとりの作家なのだろう、そんなことを考えた。都合、30ページ以上もドッグイアーし、この文章を大切にしようと思った。この小説に出会えてよかった。

・『タイタンの妖女』(カート・ヴォネガット・ジュニア)
ヴォネガットはかつて、高校のときだったろうか、『スローターハウス5』を読んだきりでいまや物語すら思い出せないくらいなのだが、こんなにも面白い話をかける小説家だったのか、と驚いた。まるでアルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ!』を想起させる展開で、たいそう興奮し続けた。早速、『スローターハウス5』を読みなおそうと、本棚を探したが、見つけられなかったので、アマゾンで買った。ついつい『猫のゆりかご』と『国のない男』もつられて買ってしまった。届くのがとても楽しみだ。

『Playback』(三宅唱)

友人でもある彼の映画について、なにかまじめに書くことはむず痒いし、そして、とても緊張する行為だ。

しかし、それでも文章を打ち進めようと思うのは、三宅唱の新作『Playback』が、彼の燦然と輝くフィルモグラフィの中でもやはり最高の傑作だ、と言わざるを得ないからである。

 

この世界に「トニー・スコットの真の後継者だ」と自信を持って言える監督がいるとするならば、やはり三宅唱しかいない。あらためてそう感じた。男2人を並べて、同じフレームに収めること、そしてその「関係」を描くこと、すなわち「演出」という行為において、ほとんどトニスコの映画を見ているような感動を覚えるし、男3人<ハジ/ボン/モンジ>を並べれば(『やくたたず』でその片鱗は十分に見せていたが)世界でも彼の右に出るものはいないのでは、とすら思えてしまう。彼の演出力を前にすれば、白黒だカラーだ(あるいはフィルムだ/デジタルだ)、ということですら重要でなくなるだろう。

三宅唱という監督の映画を、ぼくがはじめてみた『4』や『マイムレッスン』(どうやら6年も前らしい)以降、ほとんど唯一共通して描かれる主題めいたもの、があるとすれば、「遅れてしまった」感覚ではないか、と僕は考えている。映画中に遠藤が言うように「選択の結果」の「やっちまったなー」感あるいは「取り戻せない」感と言い換えてもいいだろう。(一体リア充代表の彼において、どんなトラウマがあって「遅れてしまった」感を描きたがるのか、と聞いてみたくもあるが!)
今作も冒頭から「遅れてしまった」感に満ちたシーンが連続して描かれる。当然映画は引っ越しから始まるわけだが、最初わけもわからず「引っ越し」にサインし、そして段々理解していく、ハジの「遅れてしまった」感といったら、痛快の極みだ。
そしていよいよ本作では、「遅れてしまった」感を取り戻すために、過去へとプレイバックしてすら見せる。その意味で本作は、彼が描きたかったものに対して、最も向き合った映画であるだろうし、故に我々観客は、彼の映画の中でも最も心惹かれるのかもしれない。

また映画中、何度も繰り返される「お前の話」「俺の話」あるいは「俺の話じゃない」というフレーズも印象的だ。なによりも、ロカルノ映画祭で使用されたであろう英語字幕バージョンでは、「your story」「my story」「This is not my story」という言葉群が字幕を踊ったであろうことを想像すれば、それだけで超かっこいいことだし、僕は興奮の極みに到達してしまう(勿論、英語字幕バージョンを見たわけではないので、僕の妄想に過ぎず全然違った場合はご容赦頂きたい)

 

思うところを書いてはみたが、難しいことを言わずとも、アメリカ映画のように、ただかっこよくて、ただ面白い、最高の映画である。日本では彼の名前を知らない映画人は、既にほとんどいなくなったのでは、とすら思うが、いづれ(きっとそこまで時間はたたないだろうが)、アメリカで彼は凄まじい映画を撮るだろうし、世界的に三宅唱の名前は有名になるだろう。僕は6年前からそう言い続けている。だから、いま彼が凄い勢いで駆け上がっていることが嬉しくてしょうがない。

その三宅唱の新作『Playback』は、11月10日からの渋谷での劇場公開する。是非駆けつけてほしい。

http://www.playback-movie.com

 

 

僕は本作を、ぴあフィルムフェスティバル@フィルムセンターで見たのだが、本人も言うように、フィルムセンターで彼の映画が上映されることが幸せでならない。次回は、三宅唱生誕100年、三宅唱死後のレトロスペクティブだろう。笑

そして彼の映画の魔力で集まった久々のメンバー8人でのプレイバックナイトも個人的には触れておきたい。ひさびさにシネフィルと触れて、2時間映画についてしか話さず、かつての興奮を思い出した。最後のその場で言及された映画を、記して、お茶を濁して終わりにしようと思う。いいと言われたものも、ぼろぼろに罵倒されたものも羅列する。(言及されるということが素晴らしい)

『スパイの舌』『やくたたず』『Playback』(以上、三宅唱)、『デジャヴ』『アンストッパブル』(以上、トニー・スコット)、『幸せへのキセキ』『あの頃ペニーレインと』『エリザベスタウン』(以上、キャメロン・クロウ)、『フェイス・オフ』(ジョン・ウー)、『エア・フォースワン』(ウォルフガング・ペーターゼン)、『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』『アメリカの影』『こわれゆく女』『ラブ・ストリームス』『フェイシズ』(以上、ジョン・カサヴェテス)、『私の中のあなた』(ニック・カサヴェテス)、『ブロークン・イングリッシュ』(ゾエ・カサヴェテス)、『シルビアのいる街で』『イニス・フリー』(以上、ホセ・ルイス・ゲリン)、『回路』『贖罪』(黒沢清)、『夜よ、こんにちは』(マルコ・ベロッキオ)、『ザ・タウン』『ゴーン・ベイビー・ゴーン』(以上、ベン・アフレック)『ミッドナイト・イン・パリ』『人生万歳』(以上、ウディ・アレン)、『ゾディアック』『ソーシャル・ネットワーク』『ドラゴン・タトゥーの女』(以上、デヴィッド・フィンチャー)、『桐島、部活やめるってよ』(吉田大八)、『ダークナイト・ライジング』(クリストファー・ノーラン)、『ヤング≒アダルト』『JUNO』『マイレージ・マイライフ』(以上、ジェイソン・ライトマン)、『ラブ&ドラッグ』(エドワード・ズウィック)、『東京上空いらっしゃいませ』(相米慎二)、『わたしたちの宣戦布告』(ヴェレリー・ドンゼッリ)、『ライク・サムワン・イン・ラブ』(アッバス・キアロスタミ)

一番笑ったのは、中学の時何見てた、みたいな話で、ある人が「クロキヨ(黒沢清)」といったとき、俺とFは、「(マルコ・)ベロッキオ」と聞き間違えて、すげー、となった話。

『ライク・サムワン・イン・ラブ』(アッバス・キアロスタミ)

アッバス・キアロスタミの最新作が東京で撮られた、その「奇跡」が起きただけで、現代日本に生きる僕たちは、足を運ばないことは恥ずべき行為である。そして、ある種義務的に足を運ぶ僕たちは、しかし後悔はしない、ということも保証したい。『ライク・サムワン・イン・ラブ』は映画でここまでの「恐怖」を覚えたのはいつ以来だろうか、と言わせるだけの力を持ったこれまた凄まじい傑作である。

別段オバケが出るわけでもないこの映画が、しかしどんなホラー映画よりも、恐怖映画たりえているのは、やはり「人間関係」こそが何よりも恐怖の対象となりうるからだろう。

優しかったおばあちゃんを「無視」することで携帯電話から聞こえる呪いのような音声(おばあちゃんは存在することから疑わしいのである種オバケ的でもあるが)。奥野匡が運転席、加瀬亮が助手席、そして高梨臨が後部座席に座る、嘘と歪んだ「人間関係」に満ちた密室の車内。真実を知っているもと教え子の存在。奥野匡をかつて愛した隣人。そしてあのラストシーン。

 

いやー、もう9.15、今日は何なのだろうね。

この前に見た『わたしたちの宣戦布告』で打ちのめされ、Bunkamuraからユーロスペースへの坂を昇るだけでも過酷な修行のようで、果たしてこのような凄まじい映画を見た後では、いくらキアロスタミでもかすんでしまうのでは…、なんて心配をよそに、『ライク・サムワン・イン・ラブ』もこれまたおっかない傑作で、9月15日に、この2本が公開されてしまった渋谷に何が起こっているのか、と。

「衝撃的」という前評判を聞いていたラストシーンはもう死ぬかと思った(笑)。恐怖映画『ライク・サムワン・イン・ラブ』見終わった後に駅まで向かう渋谷に、いつもの親近感は湧かず、どこか初めて来た見知らぬ街のようで恐怖すら感じた。

 

ちなみに今朝の記事で紹介している( /archives/301/ )素晴らしい予告編は、アッバス・キアロスタミ作らしい(笑)どうりで凡庸で語りすぎな他の予告編とは比べ物にならないわけだ。

それに関する加瀬亮が記すエピソードが秀逸だったので、最後に紹介しておく。

「ピリピリした緊迫ムードの中、現れた巨匠は本作の予告編を携えていたという。「それがあまりにも素敵で、皆でシーンとなりました(笑)。いったい自分たちは何を作っていたのか? って、目を合わせたほど完成度が高かった。」

http://cinema.pia.co.jp/news/160078/48104/

 

 

『わたしたちの宣戦布告』(ヴァレリー・ドンゼッリ)

 

9月15日、渋谷。なんという日、そして場所なのか。

それ一本でも、現在に生まれ出ること、それ自体が奇跡のような圧倒的に凄まじい傑作が、しかも二本も同時にこの日、この場所にて公開されたのである。

 

そのうちのひとつは、ヴァレリー・ドンゼッリという決して有名ではない女優が撮った、撮ってしまった映画である。近年、ほとんど死にかけていた「フランス映画」が、いま、ここに復活した、と高らかに宣言したい。

 

そう、今日、渋谷Bunkamuraにて公開されてしまった、『わたしたちの宣戦布告』という映画は、この2012年現在に、生まれ変わってトリュフォーが再びあらわれ、映画を撮ってしまったといっても大げさではない、ヌーヴェルヴァーグ愛に満ちた凄まじいまでの傑作である。まるで、ブレッソンのような赤と青の対照的な色彩、ゴダールのようなカッティング、ドゥミのようなテンポとミュージカル性。僕たちが愛してやまなかったヌーヴェルヴァーグ映画群にまたひとつ奇跡のような映画が生まれた。気づいた時には、ジェレミー・エルカイムは、ジャン・ピエール=レオーにしか見えなくなる。

 

 

全編にわたって、一瞬も隙を与えぬ映画ではあるが、特にロミオとジュリエットの息子アダムが検査に向かうからの10分間は圧巻だ。ヴィヴァルディの『四季』「冬」の悲劇的な曲とともに、イメージの連鎖ですべてを語り尽くす映画的手法に息を飲む。

檻に閉じ込められたアダムが検査に向かう姿は、その泣き叫ぶ様は、ほとんど極刑を宣告され、刑務所に向かう囚人のそれにしか見えない。その姿を見れば、医師の口から、はっきりとそう告げられるまでも無く、アダムはわずか1才数カ月にして、死刑宣告を受けるだろうと気づく。

言葉の理解できる齢ではない彼の代わりに、死刑宣告は、その母親のジュリエットが受けるだろう。そして死刑宣告は伝染する。母親が病院を滑走する姿は勿論だが、なによりロミオが宣告を受けるシーンが素晴らしい。父親より先に、宣告を知っている僕たちは、階段を一段ずつ楽しげに昇るロミオの姿を、死刑執行の首吊りに向かう最後の階段を昇る姿に重ね合わせ、昇りきったところで死を迎えることを、誰もが予感する。当然、階段を昇りきった瞬間に、携帯電話を鳴らすだろう。彼はその場で、首を吊られたように座り込む。

 

そして物語はカタルシスに満ちたラストシーンに向かい疾走する。手術前夜の笑い。手術が成功し、しかし、その腫瘍が悪性だったことを知ったあとのふたりの振る舞い。「強くなろう」という言葉。パーティーの後の涙。名前を呼ぶだけで、「私もよ」と答えるシーンの充実した時間。

 

2012年現在東京に住む我々は、何をおいても、「トリュフォーの再来」が生み出したこの奇跡を一目見るために、すぐに渋谷に駆けつけなければならない。

 

『わたしたちの宣戦布告』 渋谷Bunkamuraにて公開中。

http://www.uplink.co.jp/sensenfukoku/

 

ちなみに音楽も素晴らしくてサントラすぐにアマゾンで購入した。

『ラブ&ドラッグ』『ヴァージニア』and『Playback』

最近バタバタしてて、久々におうちのPCひらく時間が取れたので、
備忘録もこめて最近見た映画(しょーもなコメント付き)と最近見たい映画について。
しかし映画を見ること・本を読むこととブログを書くことの時間的なトレードオフをすごい感じる。
(かつては日常だったが、書かなくなって久しいからそう感じるのか。)

 

■最近見た映画
『ラブ&ドラッグ』エドワード・ズウィック
DVDでみた。DVDの裏面の紹介で見てたときはまさかこんな映画だと思わなかった。
完全に笑えるセックスムービーだと思ってたけど、やー想定外な重さだった。
よかったけど、間延びしてた。
『プラダを着た悪魔』以降のアン・ハサウェイは神のごとくかわいいし、
彼女の出る映画は間違いなくおもしろいというドリュー・バリモア的な立ち位置になってきている。

 

『ヴァージニア』(フランシス・フォード・コッポラ)
ひさびさコッポラ。ここまで自由にやれてる老人監督を見るとほほえましい。
またエル・ファニングがヴァンパイア(じゃないのか)的な役で、
彼女にゾンビとか吸血鬼とかをやらせたがる監督のきもちがとても理解できます。

 

■今週見たい映画

3連休でなにか映画を見たいなーと思ったら下記の映画がベターかと。
並び順は僕の感覚によるおススメ順。(上の2つは多分間違いない)

 

『わたしたちの宣戦布告』(ヴァレリー・ドンゼッリ)
たぶんはんぱない。『Declaration of War』というだけで面白いことを確信している。
同じ女優が撮った映画として『テイク・ディス・ワルツ』の汚名返上を期待して1番推し。
http://www.uplink.co.jp/sensenfukoku/

 

『ライク・サムワン・イン・ラブ』(アッバス・キアロスタミ)
キアロスタミが日本で撮った初めての映画、というだけで、同時代を生きる日本人として、
足を運ばないことが恥ずべき行為だと断言したい。超楽しみ。
http://www.likesomeoneinlove.jp/index.html

予告編もむちゃやばい。

 

『スリープレス・ナイト』(フレデリック・ジャルダン)
ストーリーを見た瞬間、大傑作『アンダーカヴァー』(ジェームズ・グレイ)を想起させ、
それだけで見たくなっている。
http://www.sleeplessnight.jp/

 

『デンジャラス・ラン』(ダニエル・エスピノーサ)
デンゼル・ワシントンの出る映画は、条件反射のように見ることが決まるので、今回も。
ただトニー・スコットの不在を悲しむ機会にならないことを祈る。
http://d-run.jp/

以上見た映画見たい映画でした。

 

そして言わずもがな『Playback』(三宅唱)も11月の劇場公開に備え、いよいよ先行上映。

9/16(日)水戸短編映画祭
9/19(水)ぴあフィルムフェスティバル ⇒僕はここでいく。京橋フィルムセンター
9/23(日)京都シネマ
http://www.playback-movie.com/

 

 

『桐島、部活やめるってよ』(吉田大八)

僕がRSSに登録している人たちが、揃いも揃って傑作、いとおしい、存在してくれてありがとう、と言う。

こうも周囲で騒ぎたてられては、全く見る気がなかったこの映画に足を運ばないわけにはいかない。文句のひとつでもつけてやろう、そんな意気込みで挑んだものの、全く打ちのめされてしまった。

最後の、屋上のシーン。もうほんと泣いた。涙の粒ではなく筋が頬を伝うのがわかった。映画館はそのとき二分されていた。劇場の後ろの方ではみんなが大声で笑い、一方前方は笑う人はひとりもいなかった。映画館にもカースト制度の残骸を見てとった。僕は高校時代、スクールカーストはBの中(Aのちょいヤンキーぽいやつとも話せるし、Cの人たちとも表面上は公平に接し、Dは軽くいじめる。ちなみにうちの学校には特A、つまり桐島はいなかった)に位置していたが、中身はこの映画における神木くんと同じこと考えていた。そのときスピルバーグ見に行かないやつとかほんとしょーもないと思っていたが、同じように、このシーンで笑うやつ、たぶんスクールカーストでいうとBの上以上だろう(でないと笑えるはずがない)ほんとしょーもない、と思った。

この吉田大八という映画作家が、大槻ケンヂの『グミ・チョコレート・パイン』を意識していることは、『グミチョコ』と同じシチュエーション、つまりマニアックな映画の上映で出会う少年少女や、映像と音をオーバーラップさせる屋上のシーンを見れば明らかだ。僕は『グミチョコ』信者で、漫画・小説はおろか、絶対つまらんでしょそれはという映画すら公開初日に足を運んだくらいなので、映画館のシーンとか、惨すぎて直視するに堪えず、いや勿論見るんだけど、こんなの酷い、と心の叫びをあげた。吉田大八は、橋本愛に、かつてカーストを自在に駆け抜けた山口美甘子と同じ素質を与えながら、決してAランクから降りさせないことで、神木くん演ずる「かつての僕たち」の夢や希望を打ち砕く。僕たちは、現実がそうであったことと同様に、憧れの少女との「グミ・チョコレート・パイン」を行うことすら、許されない。

屋上のシーンが、近年のいかなる映画における場面よりも美しいのは、神木くんa.k.aかつての僕たちが、スクールカーストAランクへの抵抗を見せること、そのカタルシスだけに尽きない。みなが示唆するように「キリスト」を文字って付けられたであろう「桐島」が見せる、万人への愛が、このシーンで結実するからこそ美しいのだ。同じく少年少女が8mmフィルムでゾンビ映画を作り上げる『SUPER 8』は、エル・ファニングという少女の存在によって、映画がはじめて完成した(列車が迫ってくる瞬間のエル・ファニングの見せる表情は映画史に燦然と輝くものだ)。しかし『SUPER 8』とは異なり、憧れの少女との交流を許されない神木たち映画部は、「女性不在の映画」を作るしかない。「女性不在の映画」なんて映画ではないという、ということを経験から十分に知っている神木くんは、長髪の男子映画部員を女装させるしか選択肢は残されていないだろう。しかし、「桐島」の万人の愛は、神木くんたちですら、見捨てはしない。自身が、屋上から飛び降りる「幻想」を見せることで、みなを屋上に集結させるのだ。そうして、神木たちの撮る映画は、橋本愛の限りなく美しい表情を捉え、奇跡の映画は完成するだろう。「桐島」の起こす奇跡は、それだけに留まらず、橋本愛のスクールカーストをぶち壊す平手打ちや、東出昌大の成長・越境、そして交流を生みだすだろう(あの「告白」のシーンの奇跡のような美しさは一体何だったのだろうか)。

あらためて言おう。「桐島、部活やめるってよ」という、日本映画の新たなる金字塔たる名作が生まれたことを、僕は両の手ばなしで喜びたい。うれしくてうれしくて仕方ない。