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『テイク・ディス・ワルツ』(サラ・ポーリー)

予告編、『ラジオ・スターの悲劇』が流れる中、トロッココースター乗るシーンを初めて見たときから、ものすごーく楽しみにしてた『テイク・ディス・ワルツ』を見た。監督が役者ってのがやはり懸念事項で、そのような映画においてほんとに物凄いのにあんまり出会ったことないので心配だ(ベン・アフレックのアメリカ映画2本とショーン・ペンの初期作品とドリュー・バリモアの『ローラーガールズ・ダイアリー』くらいだろうか思いつくものは。ジョン・カサヴェテス、クリント・イーストウッドのことをわざわざエクスキューズすることは野暮だろう)。そういう心配はあたるもので、最初の1時間の緊張感も躍動感も一切ない映像の羅列にはとにかく、あーやっぱりやっちまったなー、というのが正直なところだ。ホセ・ルイス・ゲリンの『シルビアのいる街で』を見た後に、あのストーキングシーンを見させられる時間はなにかの試練かとすら思えてしまう。

『ブルー・バレンタイン』がそうであったように、撮る人が撮れば素晴らしい映画になりうるだろうこのテーマなのに、もうずっと眠気を耐えうるに必死だった。となれば映画を見る目的はもはやあのトロッコジェットコースターのシーンを見ることで、そこまではなんとしても、となんとか眠ることを耐え忍ぶ。ところが、浮気相手がリキシャで旦那(セス・ローゲン)と嫁(ミシェル・ウィリアムズ)乗せるところがとにかく素晴らしく、あの心の揺らぎ・筋肉に目を捕らわれる様はなかなか描けるものではないし、そこから、トロッココースター含めいくつか充実したシーンが存在したことは伝えておこう。ホームパーティーのシーンであの曲を選ぶことができたのだから、サラ・ポーリーという人はとにかくセンスは良いのだろう。

ただいかんせん映画を見ていなすぎで、例えば心が揺れ動いた嫁が夫に「告白」するシーンがばっさり飛ばされてしまうことは、「告白」がいかに映画において重要なシーンとして撮られ続けてきたかについて全く経験がないことを証明している。『桐島、部活やめるってよ』のラスト、神木くんの「告白」の充実さに触れれば、「告白」シーンをカットするなんて、よもや想像もできない行為だろう。こういった経験のなさを露呈し続ける行為一つ一つでこの監督への信頼は失われてゆく。役者出身であるから撮れたのかもしれない、ラストシーン、久々に会った旦那のもとを去るときのミシェル・ウィリアムズの表情がとてつもなく素晴らしいだけに残念だ。

しかしミシェル・ウィリアムズをウィキペディングしてみたら、ヒース・レジャーの元妻なのね。離婚して数ヵ月後に彼が自宅で薬物摂取で死んでるなんて、誰かその話を映画化してください。ということを知れたのでよかったかもね。

8:20-8:26

八月二十日(月):ひさびさに会社。トニスコの死を知る。帰宅後23時半・どうしても、なにか映画を見たくなって『彼女が消えた浜辺』<about Elly>(アスガー・ファルハディ)見る。一瞬の演出で、画面を一気にサスペンスフルに持ち込む演出に感嘆する。この監督他に何撮ってるのかなーと調べたらこないだブンカムラで見た『別離』も同監督で、あれはしょうもない映画だったので残念だ。

八月二十一日(火):夜、相方とご飯。友人がとんでもないスペアリブを食わせる店がある、とおすすめしてくれた武蔵小山の「キッチンリブス」にいこうとするが、何度かけても電話が繋がらずおよそ休業日だろうと。代わりに同じく武蔵小山の『リストランテ フィーロ』へ。前菜盛り合わせ、渡り蟹のトマトソース パスタ、鴨もも肉のコンフィなど。コンフィがでらべっぴんうまかった。9月に金沢にいくことを決めた。二十一世紀美術館にまた行けることが楽しみで仕方ない。

八月二十二日(水):アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』読み終わった。これで『レベッカ』と同時に読み進めた他の本たちをすべて先に読み終えることになった。ベスターはまるでウィリアム・ギブソンのようにハチャメチャ・パンキッシュな文章で、しかし全編貫く「執念」だけ全くぶれないでいた。結局のところハヤカワSFが何よりも面白いのだとあらためて感じた。

八月二十三日(木):夜、打ち合わせにて、こんなことしようぜ、と脇道にそれた内容でワクワクした。早速キックオフをセッティングした。

八月二十四日(金):ブルーハーブ/サ上とロ吉のライブ。うちの相方がフクダがちゃらいと信じてやまないことを告げたところ、一回会ったら清廉潔白さが伝わるはずと言っていたがとてもリスキーな行為だと思った。24:30・タケシと武蔵小山で合流し、つけ麺慶次で飯食って、マックで打ち合わせ。深夜3時解散。

八月二十五日(土):ぐだぐだぐだして、夜、特製サンドウィッチを作り、ビデオ屋で『50/50』(ジョナサン・レヴイン)借りてきて見る。この映画を見た人が90%同じことになるだろうが、終盤、セス・ローゲン演ずる親友の家のシーンでおいおい泣く。トニスコも同じ気分だったのだろうか。アナ・ケンドリックという子はとても魅力的なのでもっと映画に出てほしいと思う。朝まで『レベッカ』(デュ・モーリア)、いよいよ読み終わる。なんていう小説だろう、と思う。こんなに凄い小説は他に読んだことないのでは、とすら思ってしまう。今こそ、好きな作家にデュ・モーリアと挙げよう。

八月二十六日(日):いまから相方の誕生日のサプライズパーティーをしにいく。新宿へ向かう。

 

about Tony Scott

この短い文章を書くまで、しばらく時間を要した。迷ったけれど、やはり書いておきたいと思った。

夏休みが明けた初日。友人からメールが届いた。「おい」「自殺だってよ」。Facebookを開いた。別の友人2人もそのことに触れていた。

名前を入れて、Google検索をした。遺書が見つかった、とある。写真が添えられていて、彼の姿、容姿をはじめて意識した気がした。白人で、すごく不健康そうな見た目をした写真が使われていて、なんだか驚いた。リドリー・スコットの弟なのだから、当然そんなわけはないと思いつつも、僕の中で勝手にデンゼル・ワシントンみたいな、あるいは三宅唱のようなガタイのいい黒人を想像していたからだ。自殺というのは嘘だと思った。

『デジャヴ』、『アンストッパブル』、『サブウェイ123 激突』、『エネミー・オブ・アメリカ』、『ドミノ』、『スパイ・ゲーム』、『トップガン』多くの素晴らしい傑作を生み出した最も偉大な映画監督を、世界は失った。彼の映画がもう見れないなんて、信じられないくらい悲しい。

心からご冥福をお祈りしたい。そして、すぐに、生まれ変わって、また素晴らしい映画を生みだしてほしい。

ルビッチとハワードとモーリア

久々に渋谷シネマヴェーラでルビッチとハワードの映画満喫。会員証を再度作ってもらったのだけど、かつてのことを思い出して、ほんとどれだけヴェーラヴェーラ行ってたのだろうとか、映画見て友人と会ってそのままアルコールやカッフェに興じ、話したことだとか思い出して、あーいかんいかんとなる。大学時代にルビッチをやるとなれば、上映後、振り返って座席を見れば、知った顔の1つや2つ少なくともいたはずだが、今日はおじいさんばかしで、一体みんなどうしたもんだろうか。元気でやっているのだろうか。

ところで見た映画は、『街角 桃色(ピンク)の店』(エルンスト・ルビッチ)と『姫君海を渡る』(ウィリアム・K・ハワード)の2本で、ハワードと言えば当然ホークスかと思いきやウィリアムだ。ルビッチは、もはや彼の映画に例外はないのではと思うくらい、今回も当然のように最高で、あの終わり方だけはどうなの、と言いたい部分もありつつも、大層楽しんで見た。どうしようもなく最高だった。ハワードはキャロル・ロンバードがはじめてスクリーンに出た瞬間、わおと驚かされ、それは彼女がどう見てもグレタ・ガルボに扮しているからで、僕がかつて名乗っていたがるぼるという名前はグレタ・ガルボが好きすぎるからなので、もうそれだけで大満足だった。

スタバで珈琲飲みながら『レベッカ』読み、読んだ人にしか分からないけどあの仮装舞踏会のシーンの準備~当日~翌日あたりのシーンでもうなんて衝撃的なお話かしらとスタバであわわわわ、帰り道の電車でも引き続き読んでいたら、気づいたら2駅も乗り過ごした。帰ってカオマンガイ作って、ひきつづきwordpressをせっせとやる。

『ゴーン・ベイビー・ゴーン』(ベン・アフレック)

近作『ザ・タウン』でその図体から想像できないほどに、まさしく「映画」を撮り上げたベン・アフレックの、監督第一作『ゴーン・ベイビー・ゴーン』を見た。

想像通り、圧倒的に素晴らしい映画で、『ザ・タウン』『ゴーン・ベイビー・ゴーン』の両方を見てしまった僕たちは、クリント・イーストウッドやトニー・スコットと並ぶ映画作家の誕生に立ち会えたことをただ喜ぶしかない。(『アルマゲドン』ではじめて彼の姿を目にした僕たちの一体誰がこのような事態を想像しただろうか!)

冒頭、最小限に留められた音/セリフ、街の人々の表情/視線、たった数分間で映画は異様な緊張感に包まれる。(映像はまるでトニー・スコットの『アンストッパブル』『デジャヴ』を彷彿とさせるかっこよさだ)何かとんでもない事件が始まることをまるで、セリフもなしで、音声と表情だけで撮り上げてしまうベン・アフレックの才能に感嘆するばかりだ。

あえてこの場では、物語には触れずにおこう(デニス・ルヘインの探偵シリーズ『愛しき者はすべて去りゆく』を原作とした脚本が面白くないわけがない。ぼくは『闇よ、我が手を取りたまえ』しか読んだことないけど。。)映画作家ベン・アフレックが作り込んだ画面は、2時間もの間そのほとんどが、短いクローズアップ/クローズアップの切り返し/会話する2人のバストショット・背中のショット(まさに演出!!)の3つしかほとんど存在しない。その3つの構図だけで作り上げた、かつて見たことも無いほどの「視線劇」なのである。

この映画に内包する、数多くの重厚なテーマを、すべて登場人物による「視線」だけで撮りつくすベン・アフレックの才能をただうらやむばかりである。ただ相手に対して真っ直ぐに視線を向けるのはケイシー・アフレック/ミシェル・モナハンだけで、当然、「重大な嘘」を抱えているエド・ハリスや、アマンダの叔父の視線は真っ直ぐには向けられない。終盤バーの場面、「重大な嘘」をなおもつき続けようとする、アマンダの叔父の視線は大きく揺らぐ、ミシェル・モナハンは叫ぶだろう「ルック・アット・ミー!」と。ラストシーン、2人の意見が食い違い、ミシェル・モナハンが視線を外すとき、それは2人の永遠の別れを意味するだろう。

いづれアメリカ映画を代表することになるだろう、新たな映画作家の第一作を絶対に見逃してはならない。


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『映画覚書vol.1』(阿部和重)

とてつもなく面白いのだが、なかなか読み進まぬ『レベッカ』(デュ・モーリア)と同時並行で4冊ほど本を読み進めているわけだが、その中で一番最初に読み終わったのは『映画覚書vol.1』と題された阿部和重の映画批評集だった。2004年の作品である。

多少、映画や小説に縁があるものであれば、阿部和重が小説を書く前、映画監督を目指し、映画学校に通っていたことは周知のことだろう(当然シネフィルだ)。そして、いまの日本の若手映画批評家といえば誰か、と問われれば、残念ながらかろうじて名前の挙げられる唯一の人物かもしれない。Amazonのレビューが評論家の言葉よりも信頼性が高い、と報じられたのは最近の話だったと記憶しているが、こと映画においても同様のことは起きており、「映画批評家」というくくりにおいて名前が認知されている人たちよりも、ブロガー/無名のレビュアーの方が知識も豊富で、よっぽど刺激的な文章が書くことがきできるという現状は全く嘆かわしい事態である。

内容はとても充実している。シネフィルであり、映画監督であった彼は、映画を語るにおいて十分な知識と経験を持っており、その言葉は説得力に満ちている。しかし、そのほとんど唯一の若手映画批評家の阿部和重をもってさえ、何かが足りないのである。蓮實の文章を読んでいるときのようなドキドキワクワク感がどうしても生まれない。理由は何なのだろうか。あくまで阿部和重は優れた「作家」であり、「映画の人」ではないからなのだろうか。客観的に論ずれど、この映画をどうしても見たい、と映画館に駆けつけさせる力は、彼の文章にはない。この500ページ近い評論集の最も面白かったところは、蓮實との対談における、蓮實の発言であったことが物語っているのだろう。

日本におけるほとんど唯一の若手映画批評家である彼でさえ、この程度であれば、日本の映画批評はそれこそ、危機的な状況にあるのではないだろうか。蓮實重彦の最新の著作『映画時評2009-2011』の最後のあとがきにおいて、教育者たらん彼が「若者がしょうもないから俺が見本を見せなければ」と言ったのは、もしかすると映画監督に対してよりも先に、映画批評家に対しての言葉だったのかもしれない。

『ダークナイト・ライジング』(クリストファー・ノーラン)

『ダークナイト・ライジング』(クリストファー・ノーラン)見た。絶好調のノーラン、期待を違わぬ素晴らしい映画だった。

シリーズを通して見ている者であれば、当然、舞台はニューヨークに酷似した架空の都市、ゴッサム・シティだと知っている。かつてハリウッドの大作映画でここまで、「地」にこだわった作品はない。クリスチャン・ベイル演ずるブルース・ウェイン/バットマンがほとんど無茶な戦いに挑むのは、この都市のため、それだけである。映画全体に流れる、地への誇り/愛情は全く感動的であり、ほとんどそれだけの理由で、この映画が『ミッション・インポッシブル』よりも素晴らしいと断言できる。

ゲイリー・オールドマンの演説から映画は始まる。壁一面に飾られた、ハービー・デントの大きな写真。ゲイリー・オールドマンは一枚の紙を胸ポケットにしまう。前作の映像のフラッシュバックが所々に挿入される。前作を見たことのある誰もが、本部長と呼ばれる彼の葛藤を知る。この都市は、その死によってヒーローとなったハービー・デントによって平和となったのだと気づく。『ダークナイト』『インセプション』以上の、倒錯に満ちた映画だ、とそれだけで僕らはこれからの3時間が素晴らしい時間となるだろう、と確信するだろう。

ノーランはゲイリー・オールドマン/ジョゼフ・ゴードン=レヴィットに「偶然は信じない」と言わせる。(ともにこの映画における最も素晴らしいシーンの1つだ。)終盤、橋の上、偶然はないということを思い知るジョゼフ・ゴードン=レヴィットの失望、しかし、偶然を超えた「奇跡」というものがあることを彼は知る。ラストシーン、奇跡としか言いようがない、クリスチャン・ベイルの笑顔に思わず、誰もがガッツポーズするだろう。しかも、過去とは違い、今度は正面を向いて座るのだ。今作の続編があることを予告するいやらしい演出に、かるく辟易しつつも、ノーランが監督であるならば、と楽しみになってしまうのだ。勿論楽しみの1つはあまりに魅力的すぎるアン・ハサウェイが再度スクリーンで見れることだ、ということは言うまでもない。

8.11 生き残るための努力について

お昼は嫁友達のMさんと3人で、新宿「やまと楽」でランチ。1,500円で先付、前菜、メインと一通りそろってて雰囲気も良くてよかった。煎り豆ごはん激うまだったので、家でも作る。Mさんは、子供2人いる男性を嫁と別れさせたツワモノで、話をドキドキしながら聞いた。小悪魔的な魅力に溢れる女性でした。

嫁とMさんはカフェに行くとのことなので、ばいばーいして、新宿バルト9で『ダークナイト・ライジング』(クリストファー・ノーラン)。残1席の奇跡。ここ最近『アメイジング・スパイダーマン』『THE DEPTHS』と満席で映画見れずが続いているので、今日はラッキー。映画ブーム来てるのかしら。

映画終了後、紀伊國屋で話題の「ほんのまくら」フェアのぞく。本のタイトル見せずに、本の導入部だけわかる形で、本との偶然の出会いを、というフェア。人が集まって、みんなが興味を持った導入部の本をレジにもっていく。とにかく感動したし、これこそ生き残るための努力だよなーとしみじみと感じた。映画や本や音楽はこういった努力をとかくしていかなければならない、じゃないとほんと死んじゃうよ、というのはこないだの友人との飲みの場の主題だった。例えば、僕の仕事であるネット業界は、生き残るためにどうすればいいか/どうするべきか日々考え、努力し続けている。それを知っている僕にしてみれば、いまの映画/本/音楽という業界はとかく努力が足りないように、少なくとも、見えてしまう。その中での紀伊國屋の取り組みは、本当に素晴らしいと思いつつ、偶然の出会いに期待して一冊の本を購入した。

表紙にはこう書かれている。「小説にはおよそ始まりも終わりもない」。読者として、とても本を開くのが楽しみだ。

8.10 ぐるぐるぐるがおん

会社帰りに嫁と「グルガオン」(だいすき!)。奥がバターチキン、手前がチキンムガライ。今日も激うまでした♡

渋谷に向かい巷を賑わせてる濱口竜介監督(ハマグチ!ハマグチ!ハマグチ!)の『THE DEPTHS』見に行こうとしたら満席。それでも、ものすごい人の溢れるオーディトリウム渋谷にちょっと嬉しくなったり。TSUTAYAいったら、CDがいつでも10枚2,000円レンタルになっていて驚いたので、久々にレンタルなど物色。田我流「B級映画のように」、LUVRAW & BTB「ヨコハマ・シティ・ブリーズ」など聞きたいものに出会え過ぎて、18枚レンタル。ほぼヒップホップ。今年の夏もヒップホップ三昧になりそうです。

家に帰ってこの夏、貴重な時間にやりたいことをまとめる。